| 窓の外を見つめる孤独な背中 |
昨日の夕飯時もそうでした。レンジでチンをしようと台所に立った瞬間、突然、耐えがたいほどの虚脱感がやってきたのです。
うまく言葉にはできませんが、前触れもなく気持ちがストンと落ちてしまう。そうなると、もういけません。頭の中は悪いことばかりに支配され、暗い霧の中に閉じ込められたような心地になります。
「存在するだけで価値がある」という言葉の重み
記憶が少し曖昧ですが、以前どこかで「人は何かを成し遂げたり、他者に貢献したりしなくても、ただ存在しているだけで価値がある」という考え方に触れたことがあります。
けれど、心が落ちている時には、どうしても自問自答してしまいます。
「本当に、そうなのだろうか?」と。
2019年の2月、地元の友人と会った時のことを思い出します。
友人は「いつ死んでもいいや。自分から命を絶つことはないけれど、もういつお迎えが来ても構わないんだ」と静かに話していました。その言葉が、今もずっと私の耳の奥に残っています。
生かされている幸せと、長寿の矛盾
この歳になると、友人からの電話も明るい話題ばかりではありません。
「誰々が亡くなった」「誰々のご両親が……」といった知らせを聞くことが増えました。
そんな話を聞くたびに、生きていること自体が、あるいは認知症を患いながらも父と母が健在でいてくれることが、実はとても幸せなことなのかもしれない、と感じます。
今の生活に満足しているわけではありません。それでも、生きたくても叶わなかった人たちのことを思えば、命があるだけで、それは恵まれたことなのかもしれません。
しかし、一方でこうも思うのです。
「長生きが、必ずしも幸せとは限らないのではないか」と。
健康で自立した生活、そして精神的な充足感。それらがセットになって初めて、長寿は「幸せ」と呼べるものになる気がしてなりません。ただ寿命だけが延び、介護が必要になったり、連れ添ったパートナーを失って孤独のリスクを抱えたりする日々は、あまりにも過酷です。
倒れそうな自分にできること
今の私には、老いていく両親を支える余裕がありません。
もし無理に支えようとすれば、すでにバランスを崩し、倒れかけている私は間違いなく共倒れになってしまうでしょう。
気持ちが落ちると、考えなくてもいいこと、答えの出ないことばかりが頭を駆け巡ります。
ただ、こうして言葉にすることで、少しだけ胸のつかえが軽くなるような気がしています。
とりとめのない独り言にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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