【認知症の介護】誰も悪くないけれど限界はある。父からの電話と、埋められない心のギャップ

2026年4月10日金曜日
【介護の現実:心の距離と葛藤】

実家に変化があった時には、ブログをアップするようにしていますが、今回の内容は少し重いかもしれません。認知症。それは誰が悪いわけでもない。でも、実際に関わる人にとっては、間違いなく限界を感じるものだと痛感しています。

最近、父から電話をもらうと、どうしてもイライラしている自分がいます。「今日はお父ちゃん休みなんだよ。遊びに来ない?」という電話。もし父が認知症でなければ、こんな電話はしてこないはずです。

父には何の悪気もありません。でも、電話をもらう私はイライラを隠せない。このギャップが、なかなか自分の中で埋められないのです。

「ダメ三原則」の理想と、守れない現実

父が認知症になってから、自分でも色々調べました。認知症の「ダメ三原則(否定しない・怒らない・無理強いしない)」は、本人を混乱させないための基本ルールだと言われます。……でも、正直に言って無理です。

母が入院していた頃、父は周囲に多くの迷惑をかけていました。「お父ちゃん、それはダメだよ」と伝えても、「俺はそんなことしてない。何でそんなこと言うんだ」という返事。会話が成り立たない虚しさが積み重なっていきます。

施設への拒絶と、かつての祖父の背中

以前にも書きましたが、父は一度だけ施設入所を承諾したものの、それ以降は激しく拒絶しています。かつて施設に入っていた祖父も、決して望んで入ったわけではないでしょう。でも、祖父は施設に入った後、「ここにいるしかないんだろ」と、自分の置かれた状況を受け入れていました。

今思うと、あの一言を言えた祖父は本当に立派だったと感じます。誰にも迷惑をかけたくなかったのかもしれません。

冷たい自分と、父の幸せ

私は両親と一緒に住んでいません。それでも、些細なことでイライラしてしまう。スマホに実家からの着信があると、「お父さんが倒れた」「入院した」という母からの連絡をどこかで期待してしまっている自分がいます。私は冷たい人間なのでしょう。

今の自分があるのは両親のおかげ。そんな感謝さえも、認知症という現実がすべて吹き飛ばし、父がどんどん「煙たい存在」になっていく。それが悲しくて、苦しいのです。

父は、父なりに一日も手を抜かずに生きている。いつか父が亡くなった時、私は心から「ありがとう、いっぱいありがとう」と言えるのだろうか。今はまだ、その答えが見つかりません。


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老人ホームに入った祖父が泣いた日。家族が抱える後悔

2026年3月26日木曜日
小さい頃、祖父がブランコを押してくれた日の写真。

祖父はまだ、自分の状況を理解できる人だった。

2013年5月。
祖父と一緒に暮らしていた叔母が亡くなった。

それまで二人で暮らしていた祖父は、
一人では生活ができなくなり、介護施設に入ることになった。

祖父は約3年間、同じ施設にいた。

施設に入った頃は、
「少し認知症かな」という程度だった。

しかし3年の間に、祖父は私のことを忘れてしまった。

それでも私は、月に1回か2回、祖父に会いに行った。

行くときは必ず、195mlの紙パックのジュースを持っていく。

祖父はそれを両手でしっかり持って、
いつも美味しそうに飲んでいた。

数ヶ月に一度、外出許可を取って祖父を外に連れ出した。

決まって行くのはラーメン屋だった。

祖父はラーメンを注文すると、
両手でどんぶりを抱えるようにして食べた。

「そんなに急いで食べなくても大丈夫だよ」

そう言っても、祖父は夢中で食べていた。


祖父だって、好きで施設に入ったわけではない。

叔母が亡くなり、
一緒に暮らす人がいなくなったからだ。

当時の私は何も力になれなかった。

叔母が亡くなった時、
私の母と叔母は、叔母の口座のお金を下ろすことに必死だった。

母は下ろしたお金を叔母に渡しながら言った。

「少し持っていくか?」

その姿を見て、私は腹の中で思っていた。

それは祖父のお金だろう。
何、人のお金を勝手に使っているんだ。

お金はもらう。
祖父の面倒は施設。

それはおかしくないか。

母と叔母が力を合わせれば、
何か出来たんじゃないか。

そう思っていた。


祖父は施設に入ってから、こう言っていた。

「もうここにいるしかないんだろう」

誰が好きで施設に入るだろうか。


そんな祖父の涙を、
私は一度だけ見たことがある。

施設の入り口で、

祖父はポロポロと涙を流していた。

「どうしたの?おじいちゃん」

そう聞いても、祖父は何も答えなかった。

ただ黙って泣いていた。


その日、私は母と叔母に電話をした。

「おじいちゃん、泣いてたよ」

しかし返ってきた言葉は、

「どうすることも出来ない」

それだけだった。


2016年4月16日。

祖父が危ないという連絡が入った。

私は急いで施設へ向かった。

祖父は静かに横になっていた。

「おじいちゃん」

そう声をかけると、祖父は目を開けてくれた。

そして涙の溜まった目で私を見て、
小さくうなずいた。

それが、祖父との最後の会話だった。


それから3日後。

祖父は亡くなった。

父が母を忘れた夜。認知症の現実と、施設という選択を初めて考えた日

2026年3月23日月曜日
※画像はAI(ChatGPT)で生成したイメージです。


2025年9月13日。
カップ麺を食べている横で、iPhoneが震えた。母からだった。
「今すぐ実家に来て。お父ちゃんが、私のことが全然わからなくなってる」

夜中から、父は母の顔を見ても誰だか理解できず、写真を見せて説明してもダメだったという。受話器を代わった父に「そこにいるのはバアバでしょ」と言っても、どこまで理解しているのか怪しい。

私は死に物狂いで実家に向かった。

「お父ちゃん、みんなに迷惑かけてるんだよ」
実家に着くと、母は力なく下を向いて座っていた。父の顔つきは、どこか変だった。
母に「なんでこんなになるまで放っておいたの」と聞くと、返ってきたのは「迷惑かけるから」という、いつもの言葉だった。

私は、自分を冷酷な人間だと思いながら、認知症の父に告げた。
「お父ちゃん、みんなに迷惑かけてるんだよ。もう施設に入ったほうがいい」

数年前まで、犬を連れて2時間も散歩し「悪いところなんて一つもない」と言っていた父は、もうそこにはいなかった。
父は「俺はどこでもいいよ。迷惑かけてるなら施設でもどこでもいいよ」と力なく答えた。

介護サービスの方も「奥様が限界です」と言い、生活保護を受けて遠方の施設へ一気に入所させる話が進んだ。母も、はっきりと「お願いします」と言った。

私はその足で、親戚や甥たちに電話を回した。
「ジジが遠くの施設に入る。もう顔を見られなくなるかもしれないから、早く会いに行ってくれ」

忘れられない、祖父の涙
私の脳裏には、ある光景が焼き付いている。
年金の良かった祖父は、近くの施設に入ることができた。それでも祖父は、住み慣れた場所に帰りたがっていた。毎月一度、外出させてご飯を食べに連れて行ったが、ある日、施設を出るときに、祖父は泣いた。
あの祖父が泣くのを、生まれて初めて見た。

当時、私の両親も叔母も「何もしてあげられない」と繰り返すだけだった。
叔母が亡くなったとき、そのお金を自分たちの生活に使ったくせに、今さら墓じまいの話になると「金がない」と言う。私は今でも、その無責任さに腹が立っている。

お金があった祖父でさえ、あんなに辛い思いをしたのだ。
お金のない父を遠くへ送れば、もう二度と会うことはないだろう。そう自分に言い聞かせた。

一晩で消えた、唯一の「出口」
けれど翌日、無理をして再び実家へ向かった私の前で、事態は暗転した。
「私も、みんなが帰ったあと考えてたのよ……。お父ちゃんを施設に入れたら、私は一人じゃ生活できないって」

前日の決断は、一晩で白紙になった。
母は、自分が施設入所を断るのが恥ずかしいのか、私に「今回は断っておいて」とまで言った。結局、自分の問題なのに、断りの電話さえ私に押し付けようとする。

打つ手のない、この場所で
あの日から、父の認知症はさらに進んでいる。
今、施設の話を持ち出せば、父は「俺は邪魔なのか」「死ねと言っているのか」と荒れる。

父の性格上、無理に入所させてもトラブルを起こして追い出されるか、脱走して行方不明になるのが関の山だろう。
今の私たちに、もう打つ手はない。

iPhoneの画面を叩きながら、やり場のない思いが込み上げる。
もし、お金さえあれば。
両親を二人一緒に、穏やかな施設に入れてあげられたなら。

母が先に倒れたら、その時はどうなってしまうのか。
そんな恐怖を抱えたまま、今日も出口のない日常が続いていく。

お線香

2026年3月20日金曜日

※画像はAI(ChatGPT)で生成したイメージです


お彼岸である。

姉や祖父母、叔母の墓参りには行けなかった。
体調の問題もある。

それでも何とか実家に顔を出して、
お線香だけはあげてきた。

もちろん、両親の体調の確認もあった。

実家に着き、お線香をあげた後、母に聞いた。

「お姉ちゃんの墓参り、行ったの?」

「17日に行ってきたよ」

正直、心の中では思った。

よく行けたな。

母は続けて言った。

「朝9時過ぎにタクシーで行ってね」

「年会費が12,000円で、タクシー代と花で7,000円以上」

「全部で2万円くらいかかったよ」


確かに、父も母も歩くのは厳しい。

それは分かる。

姉だって、墓参りに来てほしいと思っているはずだ。

でも、どうしても思ってしまう。

生活が苦しい中で、
タクシーで墓参りに行くことが、本当に正しいのか。

電車で一駅行って、バスでも行ける。

お金がない人が、
そこまで楽をしていいのか。

自分には分からない。

その間、父は横で独り言を言っている。

よく分からない家だ。

そして母は、続けて話し始めた。

先日のブログにも書いたが、
母が体調を崩した後、父も体調を崩した。

私は電話の様子から、
母は回復していると思っていた。

しかし翌日、深夜。

父が救急車で運ばれた。

帰ってきたのは朝だった。

預かり金で1万円。
そして帰りはまたタクシー。

さらに朝、病院での精算にもタクシー。

そして今度は、昼過ぎ。

母が下痢になり、救急車を呼んだ。

トイレから出られないほどだったらしい。

かかりつけの病院は電話がつながらず、
別の病院へ行った。

母は最初に「入院はしない」と言ったそうだ。

結果はノロウイルス。

そして帰りは、またタクシー。

私がおかしいのだろうか。

両親は駅から徒歩3分の都営住宅に住んでいる。

バスで家の近くまで帰ることは可能なはずだ。

母と話していると、

タクシーにお金を使うことが
正しいことのように感じている
ように思える。

むしろ、どこか自慢しているようにすら聞こえる。

そして、ふと思う。

ノロウイルスの人がタクシーに乗っていいのか。

病院から何の説明もなかったのか。

さらに気になることがある。

コタツの上には、今月末までの携帯が置いたままだ。

一体どうなっているんだ。

両親の金銭感覚は。

介護より先に、
お金が崩れていく現実の方が、正直つらい。

認知症の父と母の入院。iPhoneメモが記録していた介護崩壊の2021〜2023年

2026年3月18日水曜日
※下の画像は、母の2回目の入院時に医師が説明のために書いたメモである。


これは、私がiPhoneのメモに残しておいた記録をもとに書いている。

読み返すと、当時の張り詰めた空気や、心が削れていく感覚がよみがえる。
2021年の引っ越しから、2023年に生活が崩れていくまでの記録である。


2021.08.03

実家が都営住宅へ引っ越し

この頃の父は、まだ母から話を聞かなければ認知症とは分からない程度だった。

しかし今振り返ると、異変はすでに始まっていたと思う。

母が引っ越しの準備をしていても、父は何も手伝わなかった。
まるで自分は引っ越しをしないかのように、横でずっとテレビを見ていたという。

私も手伝いに行ったが、確かに父はずっと座っていた。

小さな仏壇があったのだが、それだけは業者ではなく私が段ボールに入れて台車で運んだ。
玄関を出るとき、父がふと言った言葉を今でも覚えている。

「急に元気がなくなっちゃったよ」

あの言葉は、今でも頭に残っている。

引っ越し当日は甥も手伝いに来てくれて、なんとか片付いた。
しかし、皆が動いている中で、父も母もただ座っているだけだった。

3日間のうどんと、消えるタクシー代。親の「贅沢」が私を削る

2026年3月15日日曜日

画像はAIGemini)で生成したイメージです


先日、母の様子を見に行ったとき、コタツの上にdocomoの3Gガラケーが置きっぱなしになっていた。


ほとんど使っていない。

電話が鳴っても出ないことが多い。


3G終了の話を聞いたとき、私は母に言った。

「もう契約しない方がいい」と。


スマホにすれば、月々の維持費は決して安くない。

今の生活に、そんな余裕はないはずだからだ。


もしかしたら、私は細かすぎるのかもしれない。

そう自分に問い直すこともある。


けれど、そう思わざるを得ない背景がある。


今の都営住宅に越す前、母からこう言われたことがある。


「毎月8万円、家賃を援助してほしい」


泣きながらの頼みだった。

だが、私は即座に断った。


自分の生活さえ危うい私に、そんな大金は到底出せない。



見栄の生活と、底をついた現実


かつての両親は、私を鮨屋のランチに連れて行き、

タクシーで食事に出かけるような暮らしをしていた。


一見すると、余裕のある生活だった。


だが後になって知った。

その生活は、祖父の遺産を食いつぶして成り立っていたのだと。


すべてが底をつき、

私の元へ万単位の送金依頼が届くようになって、

ようやくその現実を知った。


父は見栄っ張りだが、母も変わらない。


生活費が足りないと嘆く一方で、

病院へは往復5千円かけてタクシーで行く。


バスでの行き方を教えても、

数回でやめてしまう。


新聞はやめても、

テレビの番組表を見るためだけに雑誌を買う。


「ドブに捨てるお金」と、私の食卓


先日の、父のショートステイ当日キャンセル料もそうだ。


最初から「無理だ」と分かっていたことに、

またお金が消えていく。


私には、そのお金が

ドブに捨てられているようにしか見えない。


私の昼食は、

3袋100円のうどんを3日かけて食べるのが日常だ。


そこに卵を一つ落とし、

79円の野菜パックを小分けにして入れる。


それが、私にとっての「贅沢」だ。


マクドナルドなんて、

もう何年も食べていない。


その横で、両親はマックを買ってきて食べる。


年金に見合った生活。

身の丈に合った暮らし。


それが、なぜこれほどまでにできないのだろうか。


限界の淵で、親の心は分からない


一度、父を施設に入れ、

生活保護を申請する話が出たことがある。


母もその時は納得していた。


だが翌日には、

「やっぱり生活できないから」と、

話は白紙に戻った。


以前、母はこう言っていた。


「都営住宅が当たらなければ、

お父ちゃんを田舎に帰して、

私は死ぬつもりだった」


そこまで追い詰められているのに、

なぜ目の前の数百円、数千円を大事にできないのか。


共倒れ寸前の生活の中で、

それでも捨てられない「昔の感覚」。


ギリギリの生活を送る息子として、

親の考えは、どこまでいっても分からない。


削り節のように削られていく私の生活の横で、

無意識に浪費されていく実家のお金。


そのコントラストに、

私は今日も、眩暈(めまい)を覚える。




記憶の檻。父が「ひとり」を拒む本当の理由

2026年3月14日土曜日


※画像はAI(Gemini)で生成したイメージです

最近、母がふと漏らした。

「お父ちゃんは、認知症になってから一人になるのを異常に嫌がっている気がする」

かつての父は、仕事も家事もテキパキとこなし、何でも一人でできる人だった。
掃除も料理も、母よりマメだった。

そんな父が今、母が少しでも不在にすると、不安に駆られたように私に電話をかけてくる。

それは単なる「老い」や「病気」による不安なのだろうか。

私の記憶の断片を手繰り寄せると、別の景色が見えてくる。

激しい独占欲と、拭えない疑念

思い返せば、父は昔から、母の帰りが遅いことに異常なほど怒る人だった。

私が小学生の頃。
学校の集まりで母の帰宅が夜9時を過ぎようものなら、

「帰ってきたら水をぶっ掛けてやる」

と息巻いていた。

姉が必死に止めていた光景を、今も鮮明に覚えている。

そして30代の頃、姉から聞かされた衝撃的な事実がある。

かつて両親が大喧嘩をした際、父は母に対し

「子供の手を引いて他の男に会っていただろう」

と詰め寄ったという。

母が「誰に聞いたのか、その人に会わせて」と迫ると、父は

「相手に迷惑がかかるから言えない」

と言って逃げた。

その話が真実なのか、あるいは父の被害妄想だったのかは、母にしか分からない。

けれど父は、その 「疑惑」 を抱えたまま生きてきたのではないか。

どんなに遅い時間になっても実家の伊勢崎から日帰りで帰宅していたこと。
祖父の介護中、酒に酔って母に暴力を振るい、翌朝土下座して謝ったあの事件。

その根底には、母を繋ぎ止めておかなければならないという、歪んだ恐怖心があったのかもしれない。

認知症が暴く、心の古傷

認知症という病気は、新しい記憶を消し去る一方で、
心の奥底に沈殿していた古い感情を、生々しく浮き上がらせることがある。

父がショートステイを頑なに拒むのは、施設が嫌だという以上に、

「自分が家を空けている間に、また母がどこかへ行ってしまうのではないか」

という数十年前の記憶が、今の彼を突き動かしているのではないか。

本人にとって、それは「嘘」でも「妄想」でもない。
今この瞬間、目の前で起きている「現実」と同じ熱量を持った、消えない痛みなのだ。

母が入院していた時も、父はよく嘘をつき、人に迷惑をかけてもそれを認めようとしなかった。

当時はただ困り果てていた。
けれど今思えば、あれも自分を守るための、彼なりの必死な防衛本能だったのかもしれない。

「ひとりになりたくない」

父のその言葉は、
私たちが想像する以上に、暗く、長い年月をかけた孤独と疑念の叫びなのかもしれない。

母が横で見せている小さな安堵の裏側で、
父は今も、数十年前の霧の中に閉じ込められたまま、
母の影を追い続けている。

身勝手な鏡。父が寝込み、母が少し笑う理由

2026年3月12日木曜日


※画像はAI(Gemini)で生成したイメージです

昨日、2時間半かけて辿り着いた実家。

母の体調が気になり、今日もお昼前に受話器を取った。
まだ動けないのなら、せめてお弁当でも届けてあげなければ……そんな思いからだった。

電話に出た母の声は、まだ本調子ではなかった。
けれど、起き上がれていることに安堵したのも束の間、母は意外なことを口にした。

「今度は、お父ちゃんが戻して病院に行ったのよ」

耳を疑った。

母が嘔吐して寝込んでいた時、そばで「大丈夫、大丈夫」とのんびり構えていた父。
それなのに、いざ自分の身に同じことが起きると、迷わず病院へ駆け込むのだ。

心の中で、猛烈に 「どうなの?」 という言葉が渦巻いた。

母への無関心と、自分へのあまりに手厚いケア。
その落差があまりに激しくて、やりきれない。

原因は食あたりではなかったようだ。

水曜日のデイサービスを境に、母、そして父へと連鎖している症状。
おそらく、外部から持ち込まれた何らかのウイルスなのだろう。

けれど、実家には不思議な空気が流れていた。

父が体調を崩して寝込んでいる状況を話す母の声が、どこか、心なしか 嬉しそうに聞こえた のだ。

不謹慎かもしれないが、その気持ちは痛いほどよく分かる。

認知症の父に振り回され、一挙手一投足に神経を尖らせる日々。
父が静かに寝てくれている時間は、皮肉にも、今の母にとって唯一 「自分のペース」を取り戻せる平穏な時間 なのだ。

父の身勝手さが、図らずも母に束の間の休息をもたらすという、歪なバランス。

「うちの奴」が倒れても平気だった父が、
自分の痛みには人一倍敏感であること。

実家のカレンダーは今日も狂いなく進んでいる。
けれど、そこで営まれている日常は、どこまでもチグハグで、ままならない。

私はポカリスウェットの残像を思い出しながら、
少しだけ苦い笑いとともに電話を置いた。


2時間半かけて辿り着く実家。拒絶の果てに、母はまた耐える

2026年3月10日火曜日


※画像はAI(Gemini)で生成したイメージです

昨日、介護サービスから届いた母の異変。
今日、私は重い体を引きずるようにして実家へ向かった。

普通なら40分弱で着く距離だ。

けれど、電車に乗ると猛烈な吐き気に襲われる私にとって、それは 2時間半の長旅 になる。
どの駅のどこにトイレがあるか、すべて頭に叩き込んである。

一駅進んでは降り、呼吸を整える。
実家に着く頃には、心身ともに削り取られていた。

実家に着くなり、父から電話で頼まれたポカリスウェットを渡す。

「買いに行ったけど、どこにもなかったんだよ」

そう言う父の足元には、きっと探しきれなかった現実が転がっている。

「うちの奴」という、都合のいい言葉

寝込んでいる母に救急車を勧めたが、母はやはり父のことを気にして「大丈夫」と首を振る。

そこへ介護サービスの方が来て、父のショートステイの説明が始まった。

「なんで行くんだ」
「泊まりは嫌だ。うちの奴が具合悪いのに」

父は何度も繰り返した。

普段は母のことを「知らない人」や「友達」と呼んで混乱しているくせに、
こういう時だけは 「うちの奴」 という言葉を使って、そばに居座ろうとする。

母の気が休まるように、という周囲の配慮は、父の頑なな拒絶にかき消されていく。
結局、ショートステイは立ち消えになった。

母も
「お父ちゃんには無理だと思うよ。キャンセル料は払うから断る」
と、力なく笑った。

私も、父と話してみて確信した。
今の父を無理やり預ければ、さらなるパニックとトラブルを招くだけだ。

「こんなもんだよな」という諦念

短時間の滞在で、母に
「無理しないで救急車を呼んでね」
とだけ伝え、私は実家を後にした。

帰路の途中、スマホが震える。
介護サービスからの、予定通りの「キャンセル」の連絡だった。

知っていた。
こうなることは、分かっていた。

認知症だから、本人は何も考えていない。
悪意さえない。

けれど、その 「無邪気な拒絶」 によって、
体調を崩した母が休まる時間は奪われ、
私の必死の往復は、ただの「確認作業」に終わる。

母はきっと、今回も簡単には救急車を呼ばないだろう。
父という重石を抱えたまま、沈みゆく船の上で耐え続ける。

「うまく言えないや」

脳裏に浮かぶのは、
実家の玄関で見た、どこか他人事のような父の顔と、
布団の中で小さくなっていた母の背中。

2時間半かけて帰る電車の窓に、
出口のない家族の肖像 が映っていた。

配役の変わる舞台。父にとっての「東京の彼女」と母の涙

2026年3月6日金曜日

水曜日の昼過ぎ、iPhoneが震えた。
画面に表示されたのは、母が以前入院していたときにお世話になった、古い友人の名前だった。

父がデイサービスに出かけ、母がひとりになる水曜日。
友人たちはその時間を知っていて、孤独を紛らわせるために電話をくれる。

私は一瞬、母の身に何かあったのかと身構えながら通話ボタンを押した。

「お母さん、電話で泣いていたよ」

友人の声は沈んでいた。
最初はいつもの調子で話していた母が、父の話題になった途端、堪えきれずに涙をこぼしたという。

「何十年も一緒にいて、何もかも忘れられちゃった……」

父の認知症は、少しずつ記憶を書き換えていく。
前回の記事で、私は“記憶の逆転”について書いた。
今まさに自分を支えている母が、父の中では「知らない人」に塗り替えられていく、その残酷さを。

けれど、第三者の口から聞かされる母の生々しい涙は、想像よりもずっと冷たく、重かった。

当の父は、相変わらずだ。

最近の執着は、かつて住んでいた伊勢崎から、少し形を変えて「私の家」へと向いている。
「今から遊びに行きたい」と電話をしてくる。

電車に乗らなければ来られない距離だと説明すると、父はあっさり言う。
「じゃあ、友達がいるからいいや」

そう言って電話を切る。

父の言う「友達」とは、いったい誰のことなのか。

電話の向こうで、母が「またくだらない電話をして」と呆れて口を挟む声が聞こえる。
おそらく父は、その声を聞いて安心し、満足して受話器を置いているのだ。

以前、父は母のことを「東京の彼女」と呼んだことがあった。

父の頭の中で、母の存在はくるくると姿を変える。
故郷にいるはずの「本物の妻」。
今そばにいてくれる「気のいい友達」。
そして、恋をした「東京の彼女」。

目の前にいるのは、何十年も共に歩いてきた、ただひとりの同じ人なのに。

父の壊れかけた万華鏡を通すと、母は一瞬ごとに違う誰かに配役されてしまう。

父にとってそれは、混濁した記憶が生み出した、新しい恋や友情のような、どこか救いを含んだ世界なのかもしれない。
けれど母にとっては、それはあまりに過酷な仕打ちだ。

あなたは「彼女」でも「友達」でもない。
この父の人生を、生活を、血のにじむ思いで支え続けてきた、たった一人の「妻」なのだ。

父が「友達がいるから寂しくない」と満足げに笑うとき。
その“友達”の隣で、たった一人の妻が、誰にも届かない声を上げている。

私のiPhoneに残った着信履歴。
それは、迷宮を彷徨う父の世界と、冷え切った現実の中に立つ母とをつなぐ、細くて重い一本の糸のように思えてならない。

それでも私は、今日も電話に出る。

結局、みんな「他人事」なんだ。

2026年3月2日月曜日

父の病状が悪化し、1日2回の電話に追い詰められる日々の中で、最近痛感することがある。
それは、「世間というものは、どこまでいっても他人事でしかない」ということだ。

父や母の知り合いが、心配して母に電話をかけてくることがあるらしい。
だが、その内容は決まって薄っぺらな同情だ。

「区役所に相談してみたら?」
「もう、施設に入れちゃえばいいじゃない」

母から電話越しにその話を聞かされるたび、私の胸の奥にはどす黒い怒りが込み上げる。
「こっちだって、できることは全部やってるんだよ」
「一度も家に見に来たこともないくせに、簡単に言うな」

喉元まで出かかった文句を飲み込みながら、愚痴をこぼす母の話を聞く。
母の辛さはわかる。けれど、それをぶつけられる私の心も、もう余裕なんて1ミリも残っていないのだ。

伯母の遺言と、母の今

そんな時、ふと思い出す記憶がある。
かつて、私の祖父が認知症になりかけた時のことだ。

一緒に住んで祖父を看ていた伯母は、自らも末期の癌を患っていた。
癌の苦痛に耐えながら、祖父のために買い物に行き、自分の入院中には祖父をショートステイに預ける手配まで一人でこなしていた。

伯母が亡くなった後、遺書が見つかった。
そこには、「姉も妹も(私の母たちも)、何の協力もしてくれない」という、血を吐くような孤独が綴られていたという。

当時の母は、その伯母の苦しみを、きっと本当の意味では理解していなかったのだと思う。
どこかで「大変だね」と、今の知人たちと同じように他人事として眺めていたのかもしれない。

そして今。
母は、かつての伯母と全く同じ、出口のない暗闇の中にいる。

繰り返される孤独の形

結局、自分がその立場にならない限り、人は本当の絶望を想像することすらできない。
それが人間の限界なのかもしれない。

かつての伯母。今の母。そして、板挟みになりながら精神を削られる私。

「施設に入れればいい」
その一言で片付けられるほど、生活保護や経済的な壁、そして家族としての情は単純なものではない。

鳴り止まない電話。
外側から聞こえてくる無責任な励まし。
そして、過去から突きつけられる伯母の遺言。

私たちは今日も、泥舟の上で「他人事」という冷たい海に囲まれながら、ただ沈まないように必死に泥を掻き出している。

22年前のあの日、私たちの家は一度壊れた

2026年2月28日土曜日

前回の記事を書いてから、ずっと考えていることがある。
「もし、あの時あんなことが起きなければ、今の父はどうなっていただろうか」と。

かつて、両親は自営業で婦人靴の加工業を営んでいた。
朝8時から夜10時まで、休みも返上して働く背中を見て育った。やればやっただけ収入になる。端から見れば、それなりに余裕のある家だったはずだ。

けれど、2005年。あの夜を境に、私たちの時計の針は狂い始めた。

睡眠薬を大量に飲んだ姉

夜10時過ぎ、姉の子供からかかってきた一本の電話。
「ママがリビングで倒れた」

慌てて家を飛び出していった両親が戻ってきた時、顔は土色だった。
「朋美が睡眠薬を大量に飲んだ」「いつ目を覚ますか分からないって言われた」

面会に言ってもICUのベッドで動かない姉。父は「俺が代わってやりたい」と泣きながら、何度も何度も姉の足をさすっていた。
その後、奇跡的に姉は目を覚まし、「ジジ、家に帰りたい」と言った。その一言で、すべてが元通りになると信じたかった。

終わりのない「支え」という名の泥沼

だが、本当の地獄はそこからだった。
退院した姉は、以前の姉ではなかった。買い物依存症になり、働かなくなり、顔を合わせれば「お金を貸して」と繰り返す。

離婚した元夫からは一銭も援助がない。父は、孫二人の生活費と、壊れていく娘の借金を、すべてその肩に背負い込んだ。

私も、当時付き合っていた彼女とのデート中、何度も入る姉からの着信に心を擦り切らせていた。
家計を支え、姉にお金を渡し、自分の手元にはほとんど何も残らない日々。

母は姉が再び「変な気」を起こさぬよう、夜な夜な姉のマンションへ泊まりに行った。姉の姿が見えなくなれば、両親は血眼になって街を走り回った。
そんな「訳のわからない生活」が何ヶ月も続き、家族の精神も、そして家計も、音を立てて崩壊していった。

涙の出なかった別れ

そしてある日、姉はあっけなく逝った。
子供たちがマクドナルドへ昼食を買いに行った、わずか数分の間の出来事だった。

知らせを聞いた時、私から涙は出なかった。
冷酷だと思われるかもしれない。けれど、私の心はどこかで「これで共倒れにならずに済む」と安堵してしまったのだ。
いや、実際には、金銭的にも精神的にも、両親はもうあの日、とうに倒れていたのかもしれない。

届かない相談、戻らない時間

今、認知症になった父は、その姉がまだ生きていると思って電話をかけてくる。
「朋美の番号を教えろ」と。

もし、姉があの日あんな選択をしなければ。
もし、姉が今も生きていてくれたら。
私は一人で、この「狂い始めた父」のことを抱え込まずに済んだろうか。二人で、父の老いについて相談できただろうか。

姉が生きていれば……そんな仮定には何の意味もない。
けれど、父が忘れてしまった「母の献身」の裏側には、こうした血を吐くような家族の歴史が積み重なっている。
今の父は、自分が娘のために心血を注ぎ、その結果として今の困窮があることさえも、もう思い出せない。

記憶の逆転。自分を愛し、最愛の妻を忘れた父

2026年2月27日金曜日


「画像はAI(Gemini)で生成したイメージです」

前回の記事を書いてからも、日常は何一つ変わらない。
1日2回、朝、夕と決まったリズムでスマホが震える。
表示される「実家」の二文字を見るだけで、胃の奥がキュッと収縮する。

受話器の向こうから聞こえるのは、やはり「伊勢崎に帰りたい」という枯れた声だ。

■歪んでしまった「切実な願い」

思い返せば、今の都営住宅に越してくる前。
家賃の支払いに窮して、祈るように都営住宅の抽選を繰り返していた時期、父は確かに「伊勢崎に帰りたい」とこぼしていた。

けれど当時、母はそれを強く拒んだ。
住み慣れた場所を離れる不安、そして何より、現実的にそこで生きていく術がないことを、母は痛いほどわかっていたからだ。

今、父の頭の中では、その時の記憶だけが歪んで固定されている。

「目の前で自分を支え、疲れ果てている妻を『他人』だと言い放ち、遠い昔の故郷へ、誰かもわからない『本当の妻』を迎えに行こうとしている。」

認知症という病は、どこまでも残酷だ。

■「私」ではなく「母」を覚えていてほしかった

自分自身のことや、自分が育った街のことは、あんなに鮮明に覚えているのに。
何十年も連れ添い、腰が曲がって歩くのも大変な母は今この瞬間も食事を運び、身の回りの事をしてくれている「最愛の人」の顔だけが、父の脳から消え去っている。

私だって、自分のことなんて忘れてくれても構わなかった。「お前は誰だ」と言われても、それほど傷つかなかっただろう。

けれど、母のことだけは、母の献身だけは、父の中に残っていてほしかった。

自分の存在とルーツを必死に守りながら、最も大切なパートナーの存在を塗り潰していく父。
その姿を見ていると、脳という臓器が壊れることは、人の「心」そのものをバラバラに解体していくことなのだと痛感する。

「お父さんは、自分のことしか見えていないんだね」

そう吐き捨てたい衝動を飲み込み、今日も私は、電話の向こうの父に嘘をつく。
あるいは、届かない真実を、壊れたレコードのように繰り返す。

私たちは今、沈みゆく泥舟の上で、ただ濁った水面に映る「かつての幸せ」を眺めている。

明日の電話では、せめて一度だけでも、
父の口から母の名前が「妻」として呼ばれる奇跡を願わずにはいられない。

毎日かかってくる電話。「伊勢崎に行きたい」――認知症の父と、募る殺意の影

2026年2月24日火曜日
「画像はAI(Gemini)で生成したイメージです」

前回の記事を書いてから、少し時間が経った。
状況は好転するどころか、父の妄望と執着は日増しに強まっている。

今は毎日、決まった時間帯に父から電話がかかってくる。内容はいつも同じだ。

「お母さんが伊勢崎にいるから、伊勢崎に電話したいんだよ」
「伊勢崎に、たまには顔を見に行きたいんだよ」

父の中では、目の前にいる母は「東京の彼女」や「前から知ってる人」であり、本当の妻(母)は故郷の伊勢崎にいることになっている。

私はもう、何百回目になるかわからない返事を繰り返す。

「今、家にいるのがお母さんだよ。ババ(母)でしょ」
→ 「いや、あれは前から知ってる人だよ」

「伊勢崎に行ったって、もう誰もジジ(父)の面倒を見てくれる人なんていないよ」
→ 「……誰かいないかね」

出口のない会話。
否定しても、説明しても、父の作り上げた世界には届かない。

そして最近、この不毛なやり取りに、さらに私の心を抉る言葉が加わった。

「朋美が電話に出ないんだよ。朋美の電話番号教えてくれ」

私の姉、朋美が亡くなってから、もう22年が経つ。
父にとっては自慢の娘だった。けれど、今の父の頭の中では、彼女はまだどこかで元気に暮らしていることになっているらしい。

「朋美は、もう22年も前に亡くなったでしょ」

私がそう告げると、父は受話器の向こうで、心底驚いたような声を出す。

「えっ……。朋美、亡くなったのか?」

昨日も言った。先週も言った。先月も、その前も。
父はそのたびに、娘を失ったばかりの新鮮な衝撃を、22年分凝縮して受け止める。

そして数分後には、その衝撃ごとすべてを忘れ、また「朋美の番号を教えろ」と電話をかけてくる。

死者を何度も殺し、遺された者の心を何度も切り刻む。
これが、認知症という病気の本当の恐ろしさだ。

正直に言おう。
もう、心が擦り切れている。

電話を切ったあと、一人で深呼吸をしても、胸の奥にどす黒い塊が沈殿していくのがわかる。

「もういい加減にしてくれ」「いい加減に死んでくれ」

そんな言葉が喉元まで出かかり、頭の中では殺意に近い感情が、一瞬、鋭く光る。

もちろん、実行するつもりなんてこれっぽっちもない。
けれど、そんな自分にゾッとするのと同時に、どこかで冷徹に納得している自分もいる。

ニュースでよく見る「老老介護の末の殺人」。
以前は「信じられない」と思っていたのに、今はその引き金に指をかけている人の震えが、痛いほどわかる。

認知症の父に悪気はない。脳が壊れていく病気がそうさせているだけだ。
それは百も承知だ。

それでも、毎日同じループに引きずり込まれ、罵声を浴び、存在を否定される母の姿を思うと、私の理性が悲鳴を上げる。

私は40分ぶんの距離を置いているから、まだこうして文章を書けている。
けれど、あの都営住宅の狭い一室で、母は毎日この「毒」を全身に浴び続けているのだ。

生活保護も、施設への入所も、経済という壁に阻まれたまま。
私たちは、ただ沈みゆく泥舟の上で、お互いの顔を見合わせている。

私は明日もまた、鳴り響く電話に出て、
「お母さんはそこにいるよ」「姉さんはもういないよ」と、届かない言葉を繰り返すしかない。

父が母に『お前が年金使い込んでるんだろ』と言うようになった ~認知症と貧困の狭間で揺れる家族~

2026年2月12日木曜日

以前の父は、それまで飼っていたジャックラッセルテリアを連れて、朝ラジオ体操に行き2時間散歩しているんだよと話すのが自慢だった。

父 homeの異変は大切にしていたジャックラッセルテリアが亡くなってから。

実家に帰るのは数ヶ月に一度だったが、両親は今の都営住宅に引っ越して5年ほど経つ今も、私は一緒に暮らしていない。
だから父の認知症の進行も、母の疲れも、ほとんど母の電話や実家に帰った時にしか知らない。

最近、母がため息まじりに話す内容が増えた。

「お父さんがまた、『お前が年金使い込んでるんだろ』って言うのよ…」

父は自分の年金が減っていると思い込んでいるらしい。
実際は国民年金だけで、貯金はほとんどない。それでも父の中では、毎月振り込まれるわずかなお金が「誰かに取られている」ことになっている。その「誰か」が、一番近くにいる母になってしまう。

朝は相変わらず
「なんで俺、森の中で寝てるんだ?」
と言い、母のことは「東京の彼女」と呼ぶ。
そして夕方になると、父から電話があり
「今友達の家にいるんだけど、家の電話番号教えて」
と。私は「今家にいるでしょ」と言い返すけど、父の声は本気で友達の家に居ると思っている。

私は実家から40分ぐらいの所に住んでいるが、「だったら生活保護を受ければいいんじゃない?父を介護施設に入れて、母も少し楽になれば…」と母によく話す。

一度それで話がまとまりかけた事もあったが、母から翌日にはもう少し様子を見ると言う話になった。

今でも母親に話すが、冷静になった母は静かに首を振った。
「生活保護受けたら、お父さんの年金も全部持っていかれるでしょ。施設に入れたら、私の年金だけじゃ暮らせないよ」

両親は二人とも国民年金だけ。貯金はほぼゼロ。
父が施設に入れば、母一人の年金で家賃・光熱費・食費を賄うことになる。都営住宅とはいえ、年金だけでやっていける額じゃない。結局、母は父を家で看続けるしかない。

父の言葉は日に日にきつくなる。
「金返せ」「お前が盗んだんだろ」
認知症の症状だとわかっていても、母の心は削られていく。私も電話で父の声を聞くたびにイライラするのに、母は毎日それを浴び続けている。

施設に入れる選択肢は、経済的にほぼ閉ざされている。でもこのままでは、母の方が先に潰れてしまうんじゃないか。

私は何も決められない。ただ、実家に帰るたびに父の「森で寝てたんだな」という言葉と、母の疲れた横顔を見るだけ。そしてまた家に帰る。

認知症は記憶を奪うだけじゃない。家族の未来の選択肢まで、少しずつ狭くしていく。貧困と重なると、その重さは想像以上だ。

この都営住宅の小さな部屋で、両親はまだ、ぎりぎりのところで今日を繋いでいる。
私はその外側から、ただ見守ることしかできない。

母親の再入院及び私自身の糖尿病との診断

2023年11月29日水曜日

何もかもがうまく行きません。27日午前中に実家から電話があったから父親の体調が悪いか、お金の話かと思っていたら、母親が12月に入院するとの話だった。今年に入って3回目である。1回目の手術の時に問題ないって言っておいてまた、同じ手術するのか?正直、入院先の病院がヤブなんじゃないかって疑うよ。

アー本当に辛い。母親の入院中は父親の面倒を見なくちゃいけない。また毎日、父親のお風呂の準備、食事の用意をして、火の元の確認をして帰る日々か。

また今回も一番の負担は金銭面かな。また父親はお金がないのに母親のお見舞いにタクシーで行っちゃいそうだし、出来ればショートスティに行って貰えると本当に助かるんだけど。今から考えると頭が痛い。入院するまで考えるのはやめておこう。

それと、私は昨年の健康診断で脂質異常が3〜4ヶ月以内に要再検査とHbA1c値の年1回の定期検診との診断であった。脂質異常に関しては、現在薬を服用して問題ない状態である。ところが、年1回の定期検診でHbA1c値の値が一発で7.0を超えて、糖尿病ですとの診断。オイオイ、メンタルもダメで脂質は薬で何とか、ダメ出しで糖尿病ときたか。

思い当たるのは食事代を浮かせるための、毎日の昼食のラーメンである。医師もラーメンは良くありませんとの指摘。まあ、昼食は週に6日はラーメンだもんな。何と言っても安い。ラーメンだけが悪いわけではないと思うが、正直、一番節約できるのが私には食費に交通費しかないから、食事にはお金はかけられない。

1ヶ月間ラーメンの回数を減らすなどして食事キチッととり運動して、再検査医に行ってみましょう!

気持ちは落ちているけど、頑張ります!


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MACLIFELab
このブログのタイトル「MACLIFELab」は、はじめは「MACLIFE」としてスタートしました。その後、私自身のうつ病や父親の認知症などが重なり、サイトをまるっきり更新できない時期も長くありました。

そんな苦しい日々を送っていく中で、いまの私や認知症の父を支えてくれているのは、間違いなく「人」であり、そして「Mac」や「iPhone」でした。

接している人は少ないかもしれません。しかし、Appleやガジェットがくれる「時間」と「心の余裕」に、私は何度も助けられてきました。介護や体調管理という厳しい現実も、テクノロジーを上手に頼りながら、少しずつ生活を整えていく感覚で向き合っています。

日々の生活では、近くに住む父の認知症介護の手伝いや、自分自身のうつ病・脂質異常症(糖尿病予備軍)といった体調とも向き合いながら過ごしています。体調が良い時の趣味は、ポケモンGOや近所の散歩です。

2012年から続けているこのブログでは、Appleの進化とともにテクノロジーと向き合いながら、「便利さの先にある自分らしい暮らし」をテーマに、自分の視点で率率直に想いを綴っています。

ときにAppleやガジェットに対して辛口になることもありますが、それもすべて、一人の愛好家としてのリアルな感想であり、愛着の裏返しです。