| 「画像はAI(Gemini)で生成したイメージです」 |
前回の記事を書いてからも、日常は何一つ変わらない。
1日2回、朝、夕と決まったリズムでスマホが震える。
表示される「実家」の二文字を見るだけで、胃の奥がキュッと収縮する。
受話器の向こうから聞こえるのは、やはり「伊勢崎に帰りたい」という枯れた声だ。
■歪んでしまった「切実な願い」
思い返せば、今の都営住宅に越してくる前。
家賃の支払いに窮して、祈るように都営住宅の抽選を繰り返していた時期、父は確かに「伊勢崎に帰りたい」とこぼしていた。
けれど当時、母はそれを強く拒んだ。
住み慣れた場所を離れる不安、そして何より、現実的にそこで生きていく術がないことを、母は痛いほどわかっていたからだ。
今、父の頭の中では、その時の記憶だけが歪んで固定されている。
「目の前で自分を支え、疲れ果てている妻を『他人』だと言い放ち、遠い昔の故郷へ、誰かもわからない『本当の妻』を迎えに行こうとしている。」
認知症という病は、どこまでも残酷だ。
■「私」ではなく「母」を覚えていてほしかった
自分自身のことや、自分が育った街のことは、あんなに鮮明に覚えているのに。
何十年も連れ添い、腰が曲がって歩くのも大変な母は今この瞬間も食事を運び、身の回りの事をしてくれている「最愛の人」の顔だけが、父の脳から消え去っている。
私だって、自分のことなんて忘れてくれても構わなかった。「お前は誰だ」と言われても、それほど傷つかなかっただろう。
けれど、母のことだけは、母の献身だけは、父の中に残っていてほしかった。
自分の存在とルーツを必死に守りながら、最も大切なパートナーの存在を塗り潰していく父。
その姿を見ていると、脳という臓器が壊れることは、人の「心」そのものをバラバラに解体していくことなのだと痛感する。
「お父さんは、自分のことしか見えていないんだね」
そう吐き捨てたい衝動を飲み込み、今日も私は、電話の向こうの父に嘘をつく。
あるいは、届かない真実を、壊れたレコードのように繰り返す。
私たちは今、沈みゆく泥舟の上で、ただ濁った水面に映る「かつての幸せ」を眺めている。
明日の電話では、せめて一度だけでも、
父の口から母の名前が「妻」として呼ばれる奇跡を願わずにはいられない。