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甲府事件から50年。「宇宙人だった」を一度やめて、1975年の記録から読み直してみた

2026-10-20

画像:生成AI(ChatGPT)で作成


1975年2月23日、山梨県甲府市。

当時小学2年生だった二人の少年が、ブドウ畑に着陸したUFOと、その中から現れた「宇宙人」を目撃したと語った――。

いわゆる「甲府事件」です。

日本のUFO事件に少しでも興味がある人なら、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

私自身、この事件は子供の頃から強く印象に残っています。

二人の少年がUFOを目撃し、そのうち一人は宇宙人に肩を叩かれた。家族も現場付近で光る物体を目撃し、ブドウ畑には着陸したような痕跡まで残されていた。

現在でも「日本を代表するUFO事件」「宇宙人との接近遭遇」として紹介されています。

事件から50年となった2025年には、当時の少年の一人だった山畠克博さんが改めて当時の体験を語っています。

さらに2026年には、もう一人の少年だった河野雅人さんもYouTube動画に登場し、二人で事件当時のことを振り返りました。

私も一連の動画を見ました。

しかし、それを見ていて私は逆に気になりました。

甲府事件って、本当にここまで「宇宙人だった」という話だっただろうか?


そこで今回は、現在語られている甲府事件からいったん離れ、事件直後の新聞報道や、事件から約2週間後に取材された『UFOと宇宙』の記事など、できるだけ1975年に近い資料を中心に読み直してみることにしました。

さらに、事件翌年の1976年に出版された書籍に加え、南山宏『宇宙からの侵入者』に収録された現地調査の記述や、当時行われた放射線調査についても確認しました。南山の著書は1982年刊行ですが、著者は事件から約1か月後に現地を調査したと記しています。刊行年と調査時期を混同しないよう注意しながら読み比べました。

すると、私が長年知っていた「甲府事件」と、1975年当時の記録から見えてくる「甲府事件」は、少し違って見えてきました。

最初に私の考えを書いておきます。

私は、二人の少年がすべて嘘をついたとは思っていません。

あの日、二人が何かを見て、強い恐怖を感じた可能性は十分あると思っています。

しかし、

「だからブドウ畑に地球外の宇宙船が着陸し、そこから宇宙人が降りてきて少年の肩を叩いた」

というところまでを事実とするには、分からないことがあまりにも多いのです。

親もUFOを見た――でも、本当に同じものだったのか

甲府事件の信憑性を語るとき、よく出てくるのが、

「少年だけでなく家族もUFOを目撃している」

という話です。

これは非常に強い印象を与えます。

私も以前は、

子供がブドウ畑で円盤を見る。
↓
家へ帰って親を呼ぶ。
↓
親も同じ円盤を見る。

そんな流れだと思っていました。

しかし、事件約2週間後に家族へ取材した『UFOと宇宙』の記事を読むと、少し印象が違います。

山畠君の父親の証言では、家族は18時ごろから夕食を始め、18時半ごろになって二人が「UFOだ!UFOだ!」と叫びながら帰ってきたとされています。

普段とは違う二人の様子を見て、母親たちは少年たちについて外へ出ます。

そこで確認したのは、ブドウ畑の中でオレンジ色に輝く物体でした。

山畠君の母親は、それが回転しているように見え、5~10秒ほどの間隔で明るくなったり暗くなったりしていたと説明しています。

南山宏『宇宙からの侵入者』では、母親たちが見たものは、約100m先にある「見かけ上ドッジボールぐらい」のオレンジ色の発光体だったと記されています。さらに、光は約5分間にわたって明滅し、次第に弱まり、その場で消えたとされています。

ただし、この約5分という時間は南山さんの記述に基づくもので、時計で計測された時間だったかどうかは分かりません。また、二人の母親が最後まで見続けたわけでもありません。一人は途中で夫たちを呼びに戻り、消える瞬間を見たのはもう一人の母親と子供たちだったとされています。

ここで気になるのは、光の大きさです。「ドッジボールぐらい」というのは遠方からの見かけの大きさであって、物体の実際の直径ではありません。100m離れた場所から見た光と、少年たちが近くで見たという直径数mの円盤を、寸法だけで直ちに矛盾すると判断することはできません。

しかし母親は、少年たちが説明した銀色の円盤を至近距離から確認したわけではありません。

宇宙人も見ていません。

ドアも見ていません。

着陸ギアも見ていません。

さらに父親たちが現場にやって来たころには、光もほとんど消えかかっていたとされています。

つまり大人が独立して確認したのは、

「少年たちが指したブドウ畑に、オレンジ色に光る何かがあった」

というところまでです。

それが少年たちの言う「着陸した銀色の円盤」と同じものだったのかは分かりません。

事件直後の新聞記事にも、別の人物がブドウ畑付近に「オレンジ色の火の玉のようなもの」を見たという証言が掲載されています。

これは非常に興味深い証言です。

少なくとも少年二人だけではなく、その周辺でオレンジ色の光を見た人がいた可能性があるからです。

しかし、ここでも目撃されているのは「オレンジ色の火の玉のようなもの」です。

少年たちが近距離から見たという、窓、ドア、着陸ギア、文字などを備えた銀色の機体そのものを確認したという証言ではありません。

ここは分けて考えた方がいいと思います。

もちろん「UFO」を本来の「正体の確認できない物体」という意味で使えば、「親もUFOを見た」という表現もできます。

しかし一般的に、

「親もUFOを目撃した」

と書かれれば、少年たちが至近距離から見たという円盤を親も確認したように受け取ってしまいます。

この違いはかなり大きいと思います。

しかも『UFOと宇宙』No.12には、誰も円盤が飛び去るところを見ていないのが不思議だという、家族側の発言が記録されています。少年たちが逃げる際には宇宙人が機体へ戻ろうとしていたと聞いたため、円盤は気づかないうちに去り、残った光だけを大人が見たのではないか、という推測も語られています。しかし、これは離陸を実際に見た証言ではありません。

もう一つ気になるのは、近隣住民の目撃状況です。周囲が暗ければ遠くの小さな光でも見えますから、100m先から見えたことだけで強烈な光だったとは言えません。それでも約5分間続いたのなら、周辺の住宅から見た人はいなかったのでしょうか。今回確認した資料では、近隣住民にどこまで聞き取りを行い、何人が同じ光を見たのかを十分に確認できませんでした。

親が子供の話を信じたことと、親自身が同じ宇宙船を確認したことは別です。

父親の証言は、父親自身が見たものだったのか

2026年に公開された動画では、もう一つ興味深い話が出てきました。

河野さんは、事件当時、母親が取材に応じることを好まなかったため、実際には目撃していない父親が取材に対応したこともあったという趣旨の話をしています。

もちろん、これは50年以上たってから語られた河野さんの記憶です。

また、河野さんの家庭についての話であり、山畠さんの父親の証言まで同じように扱うことはできません。

それでも、この話は重要だと思います。

なぜなら、後年の資料に「父親の証言」と書かれていたとしても、その父親が自分の目で見たことを話しているとは限らないからです。

母親から聞いた話なのか。

少年たちから聞いた話なのか。

それとも父親自身が現場で確認したことなのか。

本来は、そこを分けて記録する必要があります。

家族が証言した人数と、同じ物体を独立して目撃した人数は、必ずしも同じではありません。

私は今回、甲府事件の資料を読み直す中で、この点も気になるようになりました。

「二人の証言が一致した」は、本当に強い証拠なのか

もう一つ、甲府事件の信憑性を語る際に必ずと言っていいほど出てくるのが、

「二人の少年の証言が一致していた」

という話です。

確かに、互いの話を知らない二人から別々に同じ証言が出てきたのであれば、非常に興味深い話です。

ところが甲府事件では事情が違います。

二人は目撃したときから一緒です。

一緒に逃げています。

一緒に家へ帰っています。

家族への説明も一緒です。

翌日には学校で体験を話し、UFOや宇宙人の絵を描いています。

その後、新聞社の人たちと現場へ向かった際にも二人は一緒です。

そして事件約2週間後の『UFOと宇宙』の取材でも、二人は同席した状態で質問に答えています。

ここで、新たに確認した南山宏『宇宙からの侵入者』の記述を加える必要があります。

同書で担任の上田みよし先生は、何日か間隔を空け、なるべく二人を引き離して同じ話を繰り返させたが、内容は変わらなかったという趣旨の説明をしています。

つまり、二人を別々に聞き取ろうとした試みは、当時の教師の証言として記録されているのです。この点を無視して「別々の聞き取りはなかった」と書くのは正確ではありません。

一方、その際の質問内容や、二人それぞれの回答を記した個別の逐語記録は、今回確認した資料からは見つかりませんでした。しかも聞き取りの時点では、二人はすでに一緒に体験を語っています。

先生が「話は変わらなかった」と評価したことは重要です。しかし、何がどこまで一致していたのかを、現在の私たちが独立して検証できるかどうかは別の問題です。

「二人の話が一致した」ことと、「二つの独立した証言が一致した」ことは、まったく意味が違います。

二人とも嘘をついていなくても、「あれ、こうだったよね」「そうそう」と事件について何度も話していれば、一方の記憶がもう一方の記憶を補っていく可能性があります。

これは「二人で嘘を作った」という意味ではありません。

人間の記憶そのものが、ビデオカメラのように出来事をそのまま保存するものではないからです。

まして二人は当時、小学2年生でした。

だから私は、

「二人の証言が一致しているから信憑性が高い」

という説明だけでは足りないと思うようになりました。

事件当夜に二人を別々にして絵を描かせていたら

ここを調べていて、非常にもったいないと思ったことがあります。

『UFOと宇宙』の記事によれば、家族と夜に現場へ行って戻った後も、少年たちは父親に宇宙人の姿などを話していたとされています。

父親自身は、そのときはあまり真剣に話を聞かなかったという趣旨の証言をしています。

だったらその夜、

「二人とも、見たUFOと宇宙人を描いてみて」

と、別々に絵を描いてもらっていたらどうだったでしょう。

私が親だったら、おそらく描いてもらったと思います。

事件からまだ数十分。

新聞記者も来ていない。

UFO研究家も来ていない。

テレビ局も来ていない。

それぞれ別々に描かせて、二枚の絵が細部まで一致していたら、非常に興味深い資料になったはずです。

私が確認できた初期資料の範囲では、事件当夜にそのような絵が描かれたという記録は見つけられませんでした。

確認できるのは翌日の学校で描かれた絵です。

もちろん、それでも事件直後の非常に重要な資料です。

ただ、その時点ですでに二人は前夜から一緒に事件について話しています。

後年のテレビ番組では「二人が別々に描いた絵がほとんど一致した」といった紹介もされています。

しかし1975年当時に残された複数の絵を見ると、基本的なイメージには共通点がある一方、細部まで完全に同一とは言いにくいものもあります。

私はむしろ、違っているところも含めて資料として扱うべきだったと思います。

UFOは5mだったのか、2.5mだったのか

そして私が最も引っ掛かったのが、UFOそのものの大きさです。

事件直後の山梨日日新聞では、

長さ約5m、高さ約2.5m

と報じられています。

ところが事件約2週間後に取材された『UFOと宇宙』では、

幅約2.5m、高さ約1.5m

とされています。

5mと2.5m。

倍です。

50cm程度の違いなら分かります。

当時小学2年生ですし、メジャーで測ったわけでもありません。

でも倍です。

しかも二人は、遠くから一瞬見ただけではありません。

『UFOと宇宙』の記事によれば、前方60~70mほどのブドウ畑で発光する物体を発見した後、近くまで接近しています。

そして二人は機体の近くまで接近し、その周囲を見て回りながら、窓、文字、ドア、下部の着陸ギアなどを観察したとされています。

それほど近くから数分間見た物体の基本的な大きさが、なぜここまで違うのでしょう。

さらに南山宏『宇宙からの侵入者』では、著者が少年たちに地面へ円盤の大きさを描かせたところ、直径約4.8~5m強になったと記されています。著者は事件から約1か月後に現地を調査したと述べています。

そして2026年のYouTubeでは、機体の大きさについて再び5m程度、2トントラックほどの大きさという話が出てきます。

ここで注意したいのは、5mという数字自体が近年になって突然現れたわけではないことです。

事件直後の新聞にも5mという数字は存在します。

問題はむしろ、

事件直後の新聞では約5m、その約2週間後の詳細な取材では約2.5m、事件約1か月後の調査を記した南山さんの著書では約5m、そして50年以上後の証言でも約5m。

なぜこのような違いが生まれたのか、ということです。

もちろん、新聞記者による聞き取りや寸法の表現に違いがあった可能性もあります。

私はこれを「どちらかが嘘をついた」と考えるより、目撃証言から物体の正確な寸法を決めることの難しさを示しているように感じます。

5mの円盤は、本当にあの場所にいたのか

もう一つ気になったのが、機体の形です。

少年たちが描いた機体底面の絵を見ると、外形は細長い物体というより、かなり円に近く描かれています。

もちろん小学2年生が描いた絵です。

設計図ではありません。

したがって「完全な円形だった」と断定することはできません。

しかし仮に、新聞にある「長さ約5m」が、この円盤状の物体の直径に近い数字だったとすると、かなり大きな物体になります。

しかも少年たちは、その物体が非常に低いところまで接近し、機体下部や着陸ギアなどを見たと説明しています。

ところが、私が確認できた資料の範囲では、少年二人以外に、この5m級の構造を持った円盤そのものを低空または至近距離で確認した第三者の証言を見つけることができませんでした。

一方では、家族や別の人物による「オレンジ色の光」「火の玉のようなもの」の目撃があります。

ここでも、

「周辺でオレンジ色の光が目撃された」

ことと、

「5mほどの銀色の円盤が低空を飛び、ブドウ畑に着陸した」

ことは、一度分けて考えた方がいいと思います。

前者を裏付ける第三者証言があることは興味深い。

しかし、それだけで後者まで確認されたことにはなりません。

直径5mの円盤は、どうやってブドウ畑に入ったのか

南山宏『宇宙からの侵入者』を読み直して、私が特に驚いたのは、著者自身が着陸現場に重大な疑問を抱いていたことです。

南山さんは現場のブドウ棚を測り、支柱の高さは平均約1.7m、支柱同士の間隔は平均約2.2m弱だったと記しています。しかも支柱の上部には針金が碁盤の目のように張られていました。

一方、少年たちが地面に描いた円盤は、直径約4.8~5m強。

もし直径約5mの機体が畑の外から横方向に進入したのなら、間隔約2.2mの支柱をどのように通り抜けたのでしょうか。

上空から降りたのなら、張り巡らされた針金はどうなったのでしょうか。

南山さんは、外側の支柱に損傷が見られず、上から降りれば切れるはずの針金にも切断の形跡がないと指摘しています。

興味深いことに、事件直後の山梨日日新聞には、針金が2本切れていたという記述があります。一方、南山さんは自分が調査した時点では針金は緩んでいたものの切断されていなかったと書いています。

これは資料間の違いとして記録すべきでしょう。ただし、同じ針金を同じ条件で確認したのか、調査までに現場の状態が変化していなかったのかは分かりません。したがって、この違いだけで誰かの証言が虚偽だったとは言えません。

南山さんは進入経路の矛盾を認めながら、最終的には円盤が不可解な方法で畑の中に現れた可能性を考えています。

しかし、普通の進入経路を説明できないことは、円盤が突然「物質化」した証拠にはなりません。

むしろ私には、円盤の寸法、支柱の配置、針金の状態を同じ図面に落とし込み、少年たちが説明した位置と照合することが必要だったように思えます。

UFOの大きさは曖昧なのに、宇宙人は細かい

一方で「宇宙人」になると、証言は非常に細かくなります。

身長約130~135cm。

銀色の服。

ベルト。

靴。

4本の指。

背中には「チャックのような」もの。

ここで一つ注意しておきたいのは、背中のチャック状の描写は近年になって突然追加されたものではないことです。

事件約2週間後の『UFOと宇宙』ですでに、河野君が「洋服を着ているみたい」と説明したうえで、背中について「チャックのように」と表現しています。

ですから、この部分を「後年作られた話」とするのは違うと思います。

ただし、別の意味で気になるところがあります。

例えば4本指について、取材者は、

「指が四本しかないんですか?」

と、最初から「4本」という具体的な数字を含めて質問しています。

それに河野君が肯定し、続いて山畠君も肩を触られたとき4本だったと答えています。

これだけで「誘導された」と断定することはできません。

しかし、

少年が何もないところから自由に「指は4本でした」と語った証言とは区別する必要があります。

そして私はどうしても疑問に思います。

近距離から数分間見たUFOの基本的な大きさには大きな食い違いがあるのに、恐怖の中で見た「宇宙人」の細部は、なぜこれほど具体的なのだろう。

宇宙人の特徴については、初期の資料と後年の説明に比較的共通する部分が多く見られます。しかし、それをもって事件全体の細部が一貫しているとは言えません。

また、描かれた宇宙人が当時のウルトラシリーズの怪獣、例えばバット星人やフック星人に似ているという指摘もあります。確かに外見上の類似を論じることはできますが、少年たちが事件以前にそれらの姿を見ていたかどうか、今回の資料からは確認できませんでした。

似ていることは、特撮作品の影響を受けた証拠ではありません。一方で、当時の子供たちが接していた映像や絵のイメージを、記憶や説明の問題として考えることまで否定する必要もないでしょう。

高さ1.5mのUFOに、約1.3mの宇宙人

幅2.5m、高さ1.5mという『UFOと宇宙』の数字を採用すると、さらに疑問が出てきます。

「宇宙人」の身長は約1.3m。

機体の下には高さ約25cmの半球状の着陸ギアが3個あったとされています。

さらに機体のドアが開き、そこから一人が出てきた。

内部にはもう一人が座っていて、操縦桿のようなものやテレビのような装置、多数の計器類まで見えたとされています。

もちろん「未知の宇宙船」なのですから、現在の自動車や航空機と同じ設計だと考える必要はありません。

また、証言された1.5mという高さが機体のどこからどこまでを指していたのかも、完全には分かりません。

ですから「物理的に絶対不可能」とまでは言えません。

それでも、少年たち自身が説明した寸法と内部の様子を組み合わせると、私はかなり窮屈に感じます。

「宇宙人の科学だから可能だった」

と言ってしまえば何でも説明できます。

しかし、それでは検証そのものができなくなります。

3個の着陸ギアがあったなら、地面には何が残ったのか

『UFOと宇宙』では、機体の底に同じ形の着陸ギアが3個あったとされています。

少年たちの絵にも、機体下部に複数の丸い部分が描かれています。

ここで私が知りたいのは単純です。

その3個の着陸ギアと、地面に残された痕跡は対応していたのでしょうか。

事件直後には、地面の穴、壊れかけたブドウ棚の支柱、曲がった鉄線などが確認されています。

しかし、それらが機体の3個の着陸ギアとどのような位置関係にあったのかを示す測量図を、私は確認できませんでした。

3点で地面に接していたのであれば、3か所の接触位置を少年たちに示してもらい、地面の痕跡と比較することができたはずです。

事件直後ならできた検証です。

それが残されていれば、甲府事件の物的証拠を考えるうえで非常に重要な資料になっていたと思います。

折れた支柱は、本当にUFOが壊したのか

甲府事件では、ブドウ畑に残された痕跡が、UFO着陸の証拠として紹介されることがあります。

コンクリート製の支柱が一部壊れていた。

ブドウ棚のワイヤーが曲がっていた。

地面には穴のようなものがあった。

確かに、これらが事件当夜に突然できたものであれば、非常に興味深い話です。

しかし、ここで一つ大切な問題があります。

その支柱は、事件が起きる前から壊れていたのではないでしょうか。

事件約2週間後の『UFOと宇宙』では、担任教師が現場の痕跡について説明しています。

しかし先生自身、事件以前の状態を知らないため、それらがUFOによってできたものとは断定できないという慎重な姿勢を取っています。

私は、この先生の態度は重要だと思います。

壊れた支柱があったことと、UFOが支柱を壊したことは別だからです。

しかも当時の資料には、支柱がUFOによって折られたかのように説明しているものもあります。

しかし、現場にあった破損と、その原因についての推測を同じ事実として扱ってはいけないと思います。

ここで本来、最初に話を聞くべきだったのは誰でしょうか。

私は、畑の所有者や耕作者だったと思います。

毎日その場所を見ていた人であれば、支柱がいつから壊れていたのか、ワイヤーが以前から曲がっていたのか、地面の穴が農作業によるものだったのか、何か知っていた可能性があります。

ところが、今回私が確認できた資料の中では、畑の所有者や耕作者が事件前の状態について直接説明した記録を見つけることができませんでした。

もちろん、当時まったく取材されなかったとは限りません。

所有者が何らかの説明をしていたものの、その内容が記事や調査報告に残らなかった可能性もあります。

例えば、支柱は以前から壊れていたという話だったかもしれません。

逆に、前日までは壊れていなかったという話だった可能性もあります。

しかし、そのどちらだったのかを裏付ける記録が確認できない以上、結論を出すことはできません。

私が気になるのは、ここです。

「UFOが壊した」という説明を検証するには、まず「事件前には壊れていなかった」という確認が必要だったのではないでしょうか。

さらに、折れた支柱の破断面を調べたり、破片を保存したりすることもできたはずです。

それによって必ず原因が判明したとは限りませんが、少なくとも後から検証できる資料にはなったでしょう。

現場に異常があったというだけでは、その異常が事件によって生じたことの証明にはなりません。

UFOが横滑りしたという話は、いつからあったのか

2026年の動画で、私がもう一つ気になったのが、現場の草や砂についての話です。

河野さんは、背丈ほどの草が倒れていたことや、砂が横方向へ動いたような痕跡について語っています。

そして、当時の先生から説明を受け、その説明を信じていたという趣旨の話もしています。

ここで考えたいのは、

「UFOが横滑りするところを少年が見た」ことと、「現場の痕跡を見た大人がUFOの横滑りによるものだと解釈した」ことは違う

という点です。

仮に草が倒れていたとしても、それだけでUFOが横方向へ移動したことにはなりません。

また、砂が動いたように見えたとしても、その原因を特定するには、事件前の地面の状態を知る必要があります。

さらに気になるのは、こうした特徴的な痕跡が、事件当時の資料でどのように扱われていたのかということです。

ここも南山宏『宇宙からの侵入者』を読むことで、修正が必要になった部分です。

南山さんは、赤い光がブドウ畑の中央へ横滑りしたという話を記し、さらに現場の検討では、その横滑りを二少年の証言として扱っています。ただし、少年たちは光が畑の外から入ってきたところまで見届けたわけではない、とも書かれています。

つまり、横滑りという説明は2026年になって初めて登場したものではありません。南山さんは事件から約1か月後に調査したと述べていますが、今回参照した文章そのものは1982年刊の書籍に収録されたものです。事件当時の録音や逐語記録が確認できたわけではありません。

一方、事件約2週間後に取材された『UFOと宇宙』No.12では、少年たちが横滑りを直接見たという明確な記述を、私が確認した範囲では見つけられませんでした。また、2026年に語られたような大規模な草の倒伏や砂の移動についても、初期資料から具体的な検証記録を確認できませんでした。

もちろん、記録にないからといって、そのような痕跡が絶対になかったとは言えません。

ただ、当時の調査では地面の穴や支柱、ワイヤーの状態まで調べられています。

それほど特徴的な痕跡があったのなら、なぜ初期の記録で詳しく扱われていないのでしょうか。

もう一つ、物理的な問題もあります。

もし直径数メートルの円盤がブドウ畑の中を横方向へ移動したのであれば、支柱やワイヤーとの位置関係はどうなっていたのでしょう。

どこからどこまで移動したのか。

途中に障害物はなかったのか。

実際にその経路を測った記録はあるのか。

これらが分からないままでは、横滑りという説明を物理的な事実として扱うことは難しいと思います。

現時点では、横滑りという説明が比較的早い時期の調査を記した書籍に存在したことは確認できます。しかし、その移動経路や、草・砂の痕跡が実際に円盤の移動によって生じたことを裏付ける測量・検証記録は確認できていません。

だからこそ、後年の記憶と、1975年に記録された事実を分けて考えたいのです。

放射線調査は、何を証明したのか

甲府事件には、もう一つ興味深い調査があります。

それが現場の放射線測定です。

事件後、前田進さんらによる調査では、ブドウ畑の土壌を採取し、放射線の測定が行われたとされています。

報告では、複数の地点から採取した試料のうち、一部に周辺の測定値より高い値が認められたとされ、その後の変化についても検討されています。

さらに、測定値の減少の仕方から放射性核種を推定し、中性子による放射化の可能性にまで議論が進んでいます。

これは、単に「地面に穴があった」という話とは異なり、測定を伴う調査です。

その意味で、私は無視すべき資料ではないと思っています。

ただし、ここでもいくつかの段階を分ける必要があります。

まず、測定によって通常とは異なる値が報告されたこと。

次に、その値が特定の放射性物質によるものだったのかということ。

さらに、その放射性物質がどのような原因で生じたのかということ。

そして最後に、その原因がUFOだったのかということです。

放射線の測定値が報告されたことと、UFOが放射線を出したことが証明されたことは同じではありません。

私が特に知りたいのは、測定地点と少年たちの証言との関係です。

数値が注目された土壌は、機体があったとされる場所から採取されたのでしょうか。

3個の着陸ギアの位置と一致していたのでしょうか。

それとも、少し離れた場所だったのでしょうか。

事件前の土壌の状態や、周辺の対照地点との比較は十分だったのでしょうか。

こうした位置関係や測定条件が明確でなければ、数値だけから事件との因果関係を判断することは難しいと思います。

そして南山宏『宇宙からの侵入者』には、この点について重要な記述があります。前田氏の調査では、土壌試料を採取した際に、どの試料が畑のどの地点に対応するのかという明確な記録を残していなかったというのです。

これでは、測定値が注目された試料と、少年たちが示した円盤や着陸ギアの位置とを、後から正確に照合できません。南山さん自身も、この点を惜しんでいます。

もちろん、試料の採取位置の対応が不明なことは、測定値そのものが存在しなかったことを意味しません。しかし、測定結果を「円盤が着陸した場所の証拠」と結びつける際には、大きな制約になります。

さらに、仮にUFOからの中性子によって土壌が放射化されたという仮説を考えるなら、至近距離にいた少年たちへの影響についても検討が必要になるでしょう。

ただし、土壌から得られた測定値だけで、少年たちがどれほど被ばくしたかを判断することはできません。

放射線の種類、強さ、照射時間、距離など、さまざまな条件が必要だからです。

私は放射線調査そのものを否定したいわけではありません。

むしろ、当時そこまで調査したのであれば、測定地点の詳しい位置や試料の保存状況なども含めて、後から検証できる形で残してほしかったと思います。

そして、もう一つ考えてしまいます。

土壌を採取して放射線まで調べるのであれば、同じ現場にあった折れた支柱について、所有者に事件前の状態を確認することも重要だったのではないでしょうか。

高度な分析を行うことと、基本的な事実確認を行うこと。

どちらも必要だったと思うのです。

なぜ「肩を叩かれた服」を調べなかったのか

そして今回、私が最も理解できなかったのがこれです。

山畠君は、

「宇宙人に肩を叩かれた」

と証言しています。

これは単なる目撃ではありません。

物理的な接触です。

だったら、そのとき着ていた服はどうしたのでしょう。

肩に何か付着していなかったのか。

繊維、油、土、植物片、金属粉、塗料。

何でも構いません。

もし相手が普通の人間だったなら、手袋などから何らかの物質が付着していた可能性も考えられます。

逆に説明できない物質が付着していたなら、それこそ非常に重要な証拠になったでしょう。

1975年ですから、現在のようなDNA解析はできません。

でも、

「その服を洗わずに保存しておく」

ことはできます。

もちろん、保存したからといって必ず何かが見つかるわけではありません。

何も付着していなかったとしても、それだけで接触がなかったとは言えないでしょう。

しかし、検証する機会を残すことはできたはずです。

さらに二人は機体のすぐ近くを歩いたと証言しています。

だったら二人が履いていた靴も重要です。

私が確認できた初期資料の範囲では、それらの衣服や靴を保存し、物理的な付着物などを検査したという記録を確認できませんでした。

本当に地球外の存在との物理的接触が起きた可能性を検証するのであれば、私は放射線の議論と同じくらい、こうした身近な物証も重要だったと思います。

「宇宙人」が歩いた場所も分かったはず

同じことは現場にも言えます。

少年たちは円盤があった場所を覚えていました。

3個の着陸ギア。

ドア。

機体の周囲を歩いた場所。

「宇宙人」がドアから出てきた場所。

肩を叩かれた場所。

だったら翌日、

「円盤はここ」

「ドアはここ」

「ここから出てきた」

「ここを歩いた」

「ここで肩を叩かれた」

と現場で指定してもらえばいい。

そして測る。

3個の着陸ギアの位置と地面の穴は一致するのか。

「宇宙人」が歩いたとされる経路に何らかの足跡があるのか。

少年たちが示す機体の端から端までを測ったら、実際には何mなのか。

そして何より、ブドウ畑の所有者や耕作者に、

「この支柱は以前から壊れていましたか?」

「この穴は以前からありましたか?」

「ここに農作業用の道具やリヤカーなどを置いていましたか?」

と確認する。

どれも1975年にできることです。

実際、現場では支柱やワイヤー、地面の穴などが調べられています。

それでも、少年たちの説明した機体の位置と、個々の痕跡がどのように対応していたのかについては、今回確認できた資料から十分に再現することができませんでした。

私は、こうした基本的な位置関係を記録することこそ、後から事件を検証するうえで重要だったと思います。

一貫している部分と、資料によって異なる部分

ここまで複数の資料を読み比べて、私には一つの特徴が見えてきました。

宇宙人の姿や肩を叩かれたという話には、比較的早い時期から共通する部分があります。一方で、円盤の寸法、移動の説明、現場の針金の状態などは、資料によって違います。

もちろん、針金の状態は少年たち自身の証言ではなく、新聞記者や調査者の観察に由来する可能性があります。横滑りの話も、本人の言葉をそのまま記録したのか、取材者が経過を整理したのかによって意味が変わります。

したがって、資料ごとに記述が違うことを、そのまま少年たちの証言が変わった証拠にするのは適切ではありません。

しかし同時に、宇宙人の描写に共通点があるからといって、事件の経過も含めて「二人の証言は最初から最後まで完全に一致していた」と評価することもできないはずです。

私は、少年たちが直接語った内容、家族や教師が伝えた内容、取材者がまとめた文章、そして後年の解釈を、できるだけ分けて読みたいと思います。

「この子たちは嘘をつかない」は証拠になるのか

当時の資料を読んでいると、大人たちの判断で気になるところがあります。

二人は嘘をつくような子ではない。

二人の話に食い違いがない。

この感覚自体はよく分かります。

親なら自分の子供を信じたいでしょう。

先生も普段から知っている児童が真剣な顔で訴えてきたら、

「何か大きなショックを受けるような出来事があったのではないか」

と考えるでしょう。

私自身も、二人を「嘘つきだった」と決めつける理由はないと思っています。

でも、

「嘘をついていない」ことと「見たものを正確に認識している」ことは別です。

さらに、

「本人が宇宙人だと思っている」ことと「本当に宇宙人だった」ことも別です。

ここが長い年月の中で、少しずつ一つになってしまったように感じます。

二人が真剣だった。

だから何かを体験したのだろう。

ここまでは分かります。

でも、だから宇宙船が着陸した。

だから約1.3mの宇宙人がいた。

だからその宇宙人が肩を叩いた。

とはならないはずです。

2026年、もう一人の少年・河野さんが語った

2026年、甲府事件のもう一人の当事者である河野雅人さんがYouTube動画に登場しました。

これまで山畠さんに比べ、公の場で詳しく体験を語る機会が少なかった河野さん本人からまとまった話を聞けたことは、非常に興味深いことだと思います。

私も公開された動画を見ました。

今回改めて印象的だったのは、河野さんも単なる同行者ではなく、機体の近くまで行き、人型の存在が機体から出てくるところや機内の様子まで見たと語っていることでした。

河野さんは、人型の存在が山畠さんのところまで歩いていき、肩を叩くところを見たと話しています。

さらに機内にはもう一体いたとも語っています。

山畠さんが倒れた後には、河野さんが助けて逃げたとも話しています。

ただし、ここで注意したいことがあります。

こうした話のすべてが2026年になって初めて明らかになったわけではありません。

1975年の『UFOと宇宙』にも、河野君による機体や人型の存在についての証言はすでに記録されています。

だから今回の動画を見るときにも、

「2026年に初めて語られたこと」と「1975年から存在する証言」

を分ける必要があります。

一方で、現在の二人の記憶には違いもあります。

河野さんが覚えていて山畠さんが覚えていないこと。

逆に山畠さんの記憶とは少し違って聞こえるところ。

そして河野さん自身が、時間がたつ中で思い出してきたことがあるという趣旨の発言もしています。

私はこれを「証言がおかしい」と言いたいのではありません。

むしろ50年以上前の出来事を語るのであれば、違いがあること自体は不思議ではないと思います。

だからこそ、現在の証言だけを見るのではなく、

「1975年には何と語っていたのか」

と照合することが重要なのだと思います。

外国人が訪ねてきた――それはMIBだったのか

今回の動画では、さらに興味深い話も出てきました。

河野さんによれば、事件後しばらくして二人の外国人男性が自宅を訪ねてきて、事件について質問されたといいます。

宇宙関係の本や、スペースシャトルのようなものが描かれた額、NASAと書かれたペンなどをもらったという話も出てきます。

しかし、それらの品物は現在残っていないとされています。

河野さん自身も、訪問した人物がNASAの人だったのかは分からないと話しています。

動画では、そこからMIB、いわゆる「メン・イン・ブラック」の話にも広がっていきます。

ここでも私は、一度分けて考えたいと思います。

「外国人二人が家を訪ねてきた」という河野さんの記憶と、「その二人がMIBだった」という解釈は別です。

NASAと書かれたペンを持っていたとしても、それだけでNASA職員だったことにはなりません。

また、スペースシャトルについては、1972年1月にニクソン大統領が正式に開発を承認し、NASAは当時すでに模型や完成予想図を公表していました。

さらに1974年には最初の機体の部品製造も始まっています。

したがって、1975年当時にスペースシャトルの姿を知ること自体は不可能ではありません。

仮に河野さんの記憶どおり、もらった額にスペースシャトルに似たものが描かれていたとしても、それだけで「当時まだ誰も知らなかった未来の宇宙船を知っていた人物が訪れた」という証拠にはなりません。

何より、現在その品物を確認することができません。

だから私は、

「そんな外国人は来なかった」

とも言えません。

しかし、

「MIBが河野さんの家を訪れた」

とも言えません。

分からないものは、やはり分からないのです。

証言が増えることと、証拠が増えることは同じではない

2025年、山畠克博さんは事件から50年を経て、改めて当時の出来事を語りました。

そして2026年には河野雅人さんも詳しく体験を語りました。

私は二人の記憶を否定するつもりはありません。

50年以上たっても本人たちに強烈な記憶として残っていること自体、非常に興味深いことだと思います。

ただし、1975年に何が起きたのかを検証するのであれば、私は現在の証言より、事件直後の新聞や事件約2週間後の記録を優先したいと思います。

50年以上の間に、二人は事件について何度も語ってきました。

新聞記事もあります。

テレビにも出演しています。

UFOについてのさまざまな情報にも触れてきたでしょう。

本人に嘘をつく意図がまったくなくても、1975年当時の自分自身の記憶と、その後に繰り返し語られた「甲府事件」の情報を完全に分離することは難しいでしょう。

だから現在、新しい細部が語られたときには、

「その話は1975年の資料にも存在するのか?」

を確認する必要があると思います。

今回の動画によって、1975年に採取された新しい物質が見つかったわけではありません。

肩を叩かれた服が発見されたわけでもありません。

機体の一部が残っていたわけでもありません。

3個の着陸ギアと一致する測量記録が出てきたわけでもありません。

外国人が残したとされる品物が分析されたわけでもありません。

増えたのは主として、現在の河野さんが語る50年以上前の記憶です。

それは興味深い。

しかし1975年2月23日に何が起きたのかを検証する証拠としては、1975年に残された記録とは同じ重さでは扱えません。

さらに、二人がこの50年以上の間に事件についてどの程度話し合ってきたのか、今回の収録前にどの程度記憶を共有していたのかも、証言の独立性を考えるうえでは知りたいところです。

これは二人を疑っているという意味ではありません。

2026年現在の二人の記憶が一致していることと、1975年当時に独立した二人の証言が一致していたことは、やはり別だからです。

今回の動画を見て、私は甲府事件が「宇宙人との遭遇だった」という結論に近づいたとは感じませんでした。

むしろ、

50年以上たった証言を、1975年当時の記録とどう区別して扱うべきなのか。

その重要性を改めて感じました。

証言が増えることと、証拠が増えることは同じではありません。

海外には、もっと物証や公的記録が残った事件もある

ここでもう一つ、私が不思議に感じたことがあります。

海外には甲府事件以上に多くの物的資料や公的な調査記録が残っているUFO事件があります。

例えば1967年にカナダで起きたファルコン湖事件です。

目撃者ステファン・ミカラクは、奇妙な物体との遭遇後に身体へ格子状の傷を負ったとされ、医師による診察も受けました。

現場の土壌や放射線、後に発見された金属片なども調べられています。

さらにカナダ王立騎馬警察(RCMP)や軍などの調査記録が残され、現在ではLibrary and Archives Canadaで政府資料を確認できます。

Library and Archives Canada自身も、この事件について政府が調査しながら、最終的には何が起きたのか決定的な説明には至らなかった事件として紹介しています。

つまり、これだけ調査記録や物的資料が残っていても、「地球外生命体の宇宙船だった」と証明されたわけではありません。

ここに私は甲府事件との面白い温度差を感じます。

甲府事件で「宇宙人」を直接見たのは少年二人です。

大人が確認したのはオレンジ色に光る物体まで。

現場の放射線調査も行われましたが、その測定結果が宇宙船の存在を直接証明したわけではありません。

肩を叩かれた衣服など、物理的接触を直接検証できそうな資料も、少なくとも私が確認した初期資料には保存・分析した記録を見つけられませんでした。

それでも現在、

「宇宙人と接触した甲府事件」

という表現が、ごく自然に使われています。

本当にそこまで言っていいのだろうか。

それが今回、50年前の資料をもう一度読み直してみようと思った理由の一つです。

私自身も子供の頃に「UFO」を見た

実は私自身、子供の頃に正体の分からないものを見た経験があります。

学校の盆踊りだったと思います。

夜空に非常に明るい赤い物体が止まっていて、大勢の人がそれを見ていました。

数人ではありません。

子供も大人も含め、かなりの人数です。

大人の中にはカメラを取りに帰り、写真を撮った人もいました。

その写真を新聞社へ持っていったという話までありました。

当時はUFOブームの真っ只中。

当然、みんな大騒ぎでした。

でも結局、それが何だったのか私は知りません。

だから私は、

「説明できないものを見た」という人の話を、最初から嘘だとは思いません。

自分自身にも似た経験があるからです。

でも同時に、子供だった私が見た赤い物体も、

「正体が分からなかった」

のであって、

「宇宙人の宇宙船だった」

わけではありません。

この二つの間には、とても大きな距離があります。

では、二人は何を見たのか

ここまで書くと、

「じゃあ結局、何だったの?」

と言われると思います。

分かりません。

飛行機などの光だったのか。

農作業に関係する何かだったのか。

人だったのか。

別の物体だったのか。

少年たちの恐怖や想像が混ざったのか。

二人で事件について話すうちに、それぞれの記憶が影響し合ったのか。

複数の出来事が一つの体験として記憶されたのか。

あるいは、本当に現在の私たちには説明できない何かだったのか。

残された資料だけから、そのどれか一つに決めることはできないと思います。

「宇宙人ではなかった」と証明したいがために、今度は証拠のない別の正体を作ってしまったら意味がありません。

それでは「宇宙人だった」と最初から決めることと、方向が逆なだけです。

それでも私は甲府事件が面白い

私は子供の頃から、この事件がずっと印象に残っていました。

だから今回調べ始めたときも、

「甲府事件の嘘を暴いてやろう」

と思っていたわけではありません。

むしろ逆です。

本当に宇宙人と接触した可能性がある事件なら、50年前の資料には何が残っているのだろう。

そんな興味から調べ始めました。

しかし調べれば調べるほど、私が興味を持ったのは「宇宙人の正体」だけではなくなっていきました。

二人の少年は何を体験したのか。

その夜、二人は家族に何を話したのか。

翌日の学校では何が語られたのか。

二人の記憶は、どの時点まで独立していたのか。

新聞は何を聞いたのか。

UFO研究家はどんな質問をしたのか。

畑の所有者は、事件前の現場について何を知っていたのか。

放射線調査では何が測定され、その結果からどこまで言えるのか。

そして、それが50年以上の間にどのように現在知られている「甲府事件」になっていったのか。

こちらの方が、私にはずっと興味深く感じられるようになりました。

私は今でも、1975年2月23日の夕方、二人の少年に何かが起きた可能性は高いと思っています。

少なくとも二人が強く動揺して帰宅したという家族側の証言があり、その後、母親たちも少年たちが示した方向にオレンジ色の光を見ています。

さらに事件直後の新聞には、別の人物がブドウ畑付近にオレンジ色の火の玉のようなものを見たという証言もあります。

だから私は「全部作り話だった」と簡単に片付ける気にもなれません。

でも、それが何だったのかは分かりません。

二人が嘘をついていないから宇宙人だった、とはなりません。

親が子供を信じたから宇宙人だった、でもありません。

親がブドウ畑で謎の光を見たから、そこに宇宙船が着陸していたとも限りません。

そして、

「二人の証言が一致している」

というだけで、信憑性の高い宇宙人遭遇事件になるわけでもありません。

二人は最初から一緒に体験を語っていたからです。担任教師は後に、なるべく二人を引き離して繰り返し聞き取ったと述べていますが、その個別の回答を現在の資料から詳細に照合できるわけではありません。

2026年になって河野さんが詳しく語ったことも、この考えを変えるものではありませんでした。

むしろ今回の動画を見て、私は改めて、

証言が増えることと、証拠が増えることは同じではない

と思いました。

もし今、1975年2月23日に戻れるのなら、私が見たいのは宇宙人ではありません。

事件当夜、二人を別々にして描かせた二枚の絵。

互いの話を聞かせる前に記録した二人の証言。

肩を叩かれたときに着ていた服。

二人が履いていた靴。

UFOと3個の着陸ギア、ドア、「宇宙人」、少年たちの位置を測った現場図。

放射線が測定された土壌の採取地点と、その測定条件。

そして、事件前のブドウ畑の状態を知っていた所有者や耕作者の証言。

それらが残っていたら、甲府事件は今とはまったく違う事件になっていたかもしれません。

残念ながら、今から取り戻すことが難しい資料も多いでしょう。

だからこそ私は、

「分からないものは、分からない」

でいいと思っています。

それは甲府事件を否定することではありません。

むしろ50年前、必死になって自分たちの体験を話した二人の少年に対しても、一番公平な見方なのではないでしょうか。

現在の甲府事件は、少しだけ、

「宇宙人だった」

という結論に近づきすぎているように私には見えます。

だから事件から50年以上。

一度その結論を横に置いて、1975年2月23日に戻って、この不思議な事件をもう一度考えてみたいと思ったのです。

主な参考資料・出典

[1]山梨日日新聞 1975年2月25日付

事件発生直後に報じられた新聞記事。少年たちの証言や当時の学校での説明、機体の「長さ約5m、高さ約2.5m」という記述、「宇宙人」の描写、現場の痕跡など、事件初期の情報を確認するうえで重要な資料です。

[2]『UFOと宇宙』No.12 1975年6月号

事件そのものは2月23日ですが、記事本文によれば取材は「事件発生後二週間目」に行われています。

したがって、本稿でいう「事件約2週間後」は雑誌の刊行時期ではなく、取材が行われた時期を指します。

山畠克博君、河野雅人君、家族、担任教師らの証言を収録しています。

日本GAP資料室『UFOと宇宙』No.12

[3]高梨純一『UFO日本侵略―いま日本はねらわれている』スポニチ新聞社出版局、1976年

事件翌年に出版された書籍。甲府事件について、少年たちの証言や家族が目撃したオレンジ色の光、現場の状況などを紹介しています。

事件に比較的近い時期の記述を確認するために参照しました。ただし、独立した調査記録とは限らないため、先行資料との重複にも注意しています。

[4]南山宏『宇宙からの侵入者』二見書房、1982年

著者は事件から約1か月後に現場を調査したと記しています。少年たちの説明した円盤の直径、ブドウ棚の支柱と針金、教師による反復聞き取り、母親たちの発光体の目撃、放射線試料の採取地点の問題などを検討するために参照しました。刊行は1982年であり、1975年当時の逐語記録そのものではないことに注意しています。

[5]UFO事件簿「甲府事件」

事件の経緯や関連資料を整理した二次資料です。初期資料と後年の説明を比較する際の参考にしました。

UFO事件簿「甲府事件」

[6]YBS NEWS NNN 2025年2月22日

甲府事件から50年を迎えた際の報道。山畠克博さんの現在の証言を確認するために参照しました。

[7]前田進氏による甲府事件の調査報告

事件後に行われた現場調査と土壌の放射線測定に関する資料。測定結果と、そこから導かれた放射性核種や放射化の仮説を区別して検討しました。

本稿では、報告された測定値そのものを否定するのではなく、それらがUFOの存在や放射線の発生源をどこまで裏付けるのかという観点から扱っています。

[8]Library and Archives Canada「UFOs at LAC: The Falcon Lake incident」

1967年のファルコン湖事件について、カナダの公的機関が公開している調査資料と解説です。

[9]2026年公開 YouTube「甲府UFO事件完全版」

河野雅人さんと山畠克博さんが1975年当時の体験を振り返った動画。

本稿では、これらを1975年当時の一次資料とは区別し、「50年以上後に本人が語った証言」として扱っています。

YouTube「甲府UFO事件完全版」

[10]NASA History Office「President Nixon's 1972 Announcement on the Space Shuttle」ほか

スペースシャトル計画の時系列を確認するためNASAの公式記録を参照しました。

1972年1月5日にニクソン大統領が開発を正式承認し、当時すでに模型や完成予想図が公開されていたことなどを確認するための資料です。

この記事について

甲府事件には、資料によって時刻、機体の大きさ、目撃時の状況などに違いがあります。

本稿では、後年の証言だけから1975年の出来事を再構成するのではなく、できる限り事件発生直後に近い資料を優先しました。

特に2026年に公開された河野雅人さんの証言については、非常に興味深い資料だと考える一方、1975年当時に記録された証言とは区別しています。

また、本文中の「分からない」「疑問に感じる」といった部分は、資料に書かれた事実そのものではなく、複数の資料を読み比べた私自身の考察です。

私が確認できなかった資料や証言についても、それらが存在しなかったと断定するものではありません。

私は、山畠さんや河野さんが意図的に虚偽を語っていると主張するものではありません。

二人が体験したことと、その体験の正体をどう解釈するかは別の問題だと考えています。

新たな一次資料によって確認できることがあれば、今後内容を修正する可能性があります。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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自己紹介

はじめまして、Mamoruです。

このブログのタイトル「MACLIFELab」は、はじめは「MACLIFE」としてスタートしました。その後、私自身のうつ病や父親の認知症などが重なり、サイトをまるっきり更新できない時期も長くありました。

そんな苦しい日々を送っていく中で、いまの私や認知症の父を支えてくれているのは、間違いなく「人」であり、そして「Mac」や「iPhone」でした。

接している人は少ないかもしれません。しかし、Appleやガジェットがくれる「時間」と「心の余裕」に、私は何度も助けられてきました。介護や体調管理という厳しい現実も、テクノロジーを上手に頼りながら、少しずつ生活を整えていく感覚で向き合っています。

日々の生活では、近くに住む父の認知症介護の手伝いや、自分自身のうつ病・脂質異常症(糖尿病予備軍)といった体調と向き合いながら過ごしています。体調が良い時の趣味は、ポケモンGOや近所の散歩です。

2012年から続けているこのブログでは、Appleの進化とともにテクノロジーと向き合いながら、「便利さの先にある自分らしい暮らし」をテーマに、自分の視点で率直に想いを綴っています。

ときにAppleやガジェットに対して辛口になることもありますが、それもすべて、一人の愛好家としてのリアルな感想であり、愛着の裏返しです。

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