水曜日の昼過ぎ、iPhoneが震えた。
画面に表示されたのは、母が以前入院していたときにお世話になった、古い友人の名前だった。
父がデイサービスに出かけ、母がひとりになる水曜日。
友人たちはその時間を知っていて、孤独を紛らわせるために電話をくれる。
私は一瞬、母の身に何かあったのかと身構えながら通話ボタンを押した。
「お母さん、電話で泣いていたよ」
友人の声は沈んでいた。
最初はいつもの調子で話していた母が、父の話題になった途端、堪えきれずに涙をこぼしたという。
「何十年も一緒にいて、何もかも忘れられちゃった……」
父の認知症は、少しずつ記憶を書き換えていく。
前回の記事で、私は“記憶の逆転”について書いた。
今まさに自分を支えている母が、父の中では「知らない人」に塗り替えられていく、その残酷さを。
けれど、第三者の口から聞かされる母の生々しい涙は、想像よりもずっと冷たく、重かった。
当の父は、相変わらずだ。
最近の執着は、かつて住んでいた伊勢崎から、少し形を変えて「私の家」へと向いている。
「今から遊びに行きたい」と電話をしてくる。
電車に乗らなければ来られない距離だと説明すると、父はあっさり言う。
「じゃあ、友達がいるからいいや」
そう言って電話を切る。
父の言う「友達」とは、いったい誰のことなのか。
電話の向こうで、母が「またくだらない電話をして」と呆れて口を挟む声が聞こえる。
おそらく父は、その声を聞いて安心し、満足して受話器を置いているのだ。
以前、父は母のことを「東京の彼女」と呼んだことがあった。
父の頭の中で、母の存在はくるくると姿を変える。
故郷にいるはずの「本物の妻」。
今そばにいてくれる「気のいい友達」。
そして、恋をした「東京の彼女」。
目の前にいるのは、何十年も共に歩いてきた、ただひとりの同じ人なのに。
父の壊れかけた万華鏡を通すと、母は一瞬ごとに違う誰かに配役されてしまう。
父にとってそれは、混濁した記憶が生み出した、新しい恋や友情のような、どこか救いを含んだ世界なのかもしれない。
けれど母にとっては、それはあまりに過酷な仕打ちだ。
あなたは「彼女」でも「友達」でもない。
この父の人生を、生活を、血のにじむ思いで支え続けてきた、たった一人の「妻」なのだ。
父が「友達がいるから寂しくない」と満足げに笑うとき。
その“友達”の隣で、
たった一人の妻が、誰にも届かない声を上げている。
私のiPhoneに残った着信履歴。
それは、迷宮を彷徨う父の世界と、冷え切った現実の中に立つ母とをつなぐ、細くて重い一本の糸のように思えてならない。
それでも私は、今日も電話に出る。
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