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2026年4月15日水曜日

レンジの前で立ち尽くした夜に考えたこと

窓の外を見つめる孤独な背中

今日はブログを更新する予定の日ではありませんでしたが、どうしても言葉にしておきたいことがあり、ブログを書きました。

時々、部屋でボーッとしていると「ああ、もうダメだな……」と、言いようのない感覚に襲われることがあります。

昨日の夕飯時もそうでした。レンジでチンをしようと台所に立った瞬間、突然、耐えがたいほどの虚脱感がやってきたのです。

うまく言葉にはできませんが、前触れもなく気持ちがストンと落ちてしまう。そうなると、もういけません。頭の中は悪いことばかりに支配され、暗い霧の中に閉じ込められたような心地になります。

「存在するだけで価値がある」という言葉の重み

記憶が少し曖昧ですが、以前どこかで「人は何かを成し遂げたり、他者に貢献したりしなくても、ただ存在しているだけで価値がある」という考え方に触れたことがあります。

けれど、心が落ちている時には、どうしても自問自答してしまいます。
「本当に、そうなのだろうか?」と。

2019年の2月、地元の友人と会った時のことを思い出します。
友人は「いつ死んでもいいや。自分から命を絶つことはないけれど、もういつお迎えが来ても構わないんだ」と静かに話していました。その言葉が、今もずっと私の耳の奥に残っています。

生かされている幸せと、長寿の矛盾

この歳になると、友人からの電話も明るい話題ばかりではありません。
「誰々が亡くなった」「誰々のご両親が……」といった知らせを聞くことが増えました。

そんな話を聞くたびに、生きていること自体が、あるいは認知症を患いながらも父と母が健在でいてくれることが、実はとても幸せなことなのかもしれない、と感じます。

今の生活に満足しているわけではありません。それでも、生きたくても叶わなかった人たちのことを思えば、命があるだけで、それは恵まれたことなのかもしれません。

しかし、一方でこうも思うのです。
「長生きが、必ずしも幸せとは限らないのではないか」と。

健康で自立した生活、そして精神的な充足感。それらがセットになって初めて、長寿は「幸せ」と呼べるものになる気がしてなりません。ただ寿命だけが延び、介護が必要になったり、連れ添ったパートナーを失って孤独のリスクを抱えたりする日々は、あまりにも過酷です。

倒れそうな自分にできること

今の私には、老いていく両親を支える余裕がありません。
もし無理に支えようとすれば、すでにバランスを崩し、倒れかけている私は間違いなく共倒れになってしまうでしょう。

気持ちが落ちると、考えなくてもいいこと、答えの出ないことばかりが頭を駆け巡ります。
ただ、こうして言葉にすることで、少しだけ胸のつかえが軽くなるような気がしています。

とりとめのない独り言にお付き合いいただき、ありがとうございました。


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2026年4月10日金曜日

【認知症の介護】誰も悪くないけれど限界はある。父からの電話と、埋められない心のギャップ

【介護の現実:心の距離と葛藤】

実家に変化があった時には、ブログをアップするようにしていますが、今回の内容は少し重いかもしれません。認知症。それは誰が悪いわけでもない。でも、実際に関わる人にとっては、間違いなく限界を感じるものだと痛感しています。

最近、父から電話をもらうと、どうしてもイライラしている自分がいます。「今日はお父ちゃん休みなんだよ。遊びに来ない?」という電話。もし父が認知症でなければ、こんな電話はしてこないはずです。

父には何の悪気もありません。でも、電話をもらう私はイライラを隠せない。このギャップが、なかなか自分の中で埋められないのです。

「ダメ三原則」の理想と、守れない現実

父が認知症になってから、自分でも色々調べました。認知症の「ダメ三原則(否定しない・怒らない・無理強いしない)」は、本人を混乱させないための基本ルールだと言われます。……でも、正直に言って無理です。

母が入院していた頃、父は周囲に多くの迷惑をかけていました。「お父ちゃん、それはダメだよ」と伝えても、「俺はそんなことしてない。何でそんなこと言うんだ」という返事。会話が成り立たない虚しさが積み重なっていきます。

施設への拒絶と、かつての祖父の背中

以前にも書きましたが、父は一度だけ施設入所を承諾したものの、それ以降は激しく拒絶しています。かつて施設に入っていた祖父も、決して望んで入ったわけではないでしょう。でも、祖父は施設に入った後、「ここにいるしかないんだろ」と、自分の置かれた状況を受け入れていました。

今思うと、あの一言を言えた祖父は本当に立派だったと感じます。誰にも迷惑をかけたくなかったのかもしれません。

冷たい自分と、父の幸せ

私は両親と一緒に住んでいません。それでも、些細なことでイライラしてしまう。スマホに実家からの着信があると、「お父さんが倒れた」「入院した」という母からの連絡をどこかで期待してしまっている自分がいます。私は冷たい人間なのでしょう。

今の自分があるのは両親のおかげ。そんな感謝さえも、認知症という現実がすべて吹き飛ばし、父がどんどん「煙たい存在」になっていく。それが悲しくて、苦しいのです。

父は、父なりに一日も手を抜かずに生きている。いつか父が亡くなった時、私は心から「ありがとう、いっぱいありがとう」と言えるのだろうか。今はまだ、その答えが見つかりません。


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2026年3月23日月曜日

父が母を忘れた夜。認知症の現実と、施設という選択を初めて考えた日

※画像はAI(ChatGPT)で生成したイメージです。


2025年9月13日。
カップ麺を食べている横で、iPhoneが震えた。母からだった。
「今すぐ実家に来て。お父ちゃんが、私のことが全然わからなくなってる」

夜中から、父は母の顔を見ても誰だか理解できず、写真を見せて説明してもダメだったという。受話器を代わった父に「そこにいるのはバアバでしょ」と言っても、どこまで理解しているのか怪しい。

私は死に物狂いで実家に向かった。

「お父ちゃん、みんなに迷惑かけてるんだよ」
実家に着くと、母は力なく下を向いて座っていた。父の顔つきは、どこか変だった。
母に「なんでこんなになるまで放っておいたの」と聞くと、返ってきたのは「迷惑かけるから」という、いつもの言葉だった。

私は、自分を冷酷な人間だと思いながら、認知症の父に告げた。
「お父ちゃん、みんなに迷惑かけてるんだよ。もう施設に入ったほうがいい」

数年前まで、犬を連れて2時間も散歩し「悪いところなんて一つもない」と言っていた父は、もうそこにはいなかった。
父は「俺はどこでもいいよ。迷惑かけてるなら施設でもどこでもいいよ」と力なく答えた。

介護サービスの方も「奥様が限界です」と言い、生活保護を受けて遠方の施設へ一気に入所させる話が進んだ。母も、はっきりと「お願いします」と言った。

私はその足で、親戚や甥たちに電話を回した。
「ジジが遠くの施設に入る。もう顔を見られなくなるかもしれないから、早く会いに行ってくれ」

忘れられない、祖父の涙
私の脳裏には、ある光景が焼き付いている。
年金の良かった祖父は、近くの施設に入ることができた。それでも祖父は、住み慣れた場所に帰りたがっていた。毎月一度、外出させてご飯を食べに連れて行ったが、ある日、施設を出るときに、祖父は泣いた。
あの祖父が泣くのを、生まれて初めて見た。

当時、私の両親も叔母も「何もしてあげられない」と繰り返すだけだった。
叔母が亡くなったとき、そのお金を自分たちの生活に使ったくせに、今さら墓じまいの話になると「金がない」と言う。私は今でも、その無責任さに腹が立っている。

お金があった祖父でさえ、あんなに辛い思いをしたのだ。
お金のない父を遠くへ送れば、もう二度と会うことはないだろう。そう自分に言い聞かせた。

一晩で消えた、唯一の「出口」
けれど翌日、無理をして再び実家へ向かった私の前で、事態は暗転した。
「私も、みんなが帰ったあと考えてたのよ……。お父ちゃんを施設に入れたら、私は一人じゃ生活できないって」

前日の決断は、一晩で白紙になった。
母は、自分が施設入所を断るのが恥ずかしいのか、私に「今回は断っておいて」とまで言った。結局、自分の問題なのに、断りの電話さえ私に押し付けようとする。

打つ手のない、この場所で
あの日から、父の認知症はさらに進んでいる。
今、施設の話を持ち出せば、父は「俺は邪魔なのか」「死ねと言っているのか」と荒れる。

父の性格上、無理に入所させてもトラブルを起こして追い出されるか、脱走して行方不明になるのが関の山だろう。
今の私たちに、もう打つ手はない。

iPhoneの画面を叩きながら、やり場のない思いが込み上げる。
もし、お金さえあれば。
両親を二人一緒に、穏やかな施設に入れてあげられたなら。

母が先に倒れたら、その時はどうなってしまうのか。
そんな恐怖を抱えたまま、今日も出口のない日常が続いていく。

2026年3月20日金曜日

お線香

※画像はAI(ChatGPT)で生成したイメージです


お彼岸である。

姉や祖父母、叔母の墓参りには行けなかった。
体調の問題もある。

それでも何とか実家に顔を出して、
お線香だけはあげてきた。

もちろん、両親の体調の確認もあった。

実家に着き、お線香をあげた後、母に聞いた。

「お姉ちゃんの墓参り、行ったの?」

「17日に行ってきたよ」

正直、心の中では思った。

よく行けたな。

母は続けて言った。

「朝9時過ぎにタクシーで行ってね」

「年会費が12,000円で、タクシー代と花で7,000円以上」

「全部で2万円くらいかかったよ」


確かに、父も母も歩くのは厳しい。

それは分かる。

姉だって、墓参りに来てほしいと思っているはずだ。

でも、どうしても思ってしまう。

生活が苦しい中で、
タクシーで墓参りに行くことが、本当に正しいのか。

電車で一駅行って、バスでも行ける。

お金がない人が、
そこまで楽をしていいのか。

自分には分からない。

その間、父は横で独り言を言っている。

よく分からない家だ。

そして母は、続けて話し始めた。

先日のブログにも書いたが、
母が体調を崩した後、父も体調を崩した。

私は電話の様子から、
母は回復していると思っていた。

しかし翌日、深夜。

父が救急車で運ばれた。

帰ってきたのは朝だった。

預かり金で1万円。
そして帰りはまたタクシー。

さらに朝、病院での精算にもタクシー。

そして今度は、昼過ぎ。

母が下痢になり、救急車を呼んだ。

トイレから出られないほどだったらしい。

かかりつけの病院は電話がつながらず、
別の病院へ行った。

母は最初に「入院はしない」と言ったそうだ。

結果はノロウイルス。

そして帰りは、またタクシー。

私がおかしいのだろうか。

両親は駅から徒歩3分の都営住宅に住んでいる。

バスで家の近くまで帰ることは可能なはずだ。

母と話していると、

タクシーにお金を使うことが
正しいことのように感じている
ように思える。

むしろ、どこか自慢しているようにすら聞こえる。

そして、ふと思う。

ノロウイルスの人がタクシーに乗っていいのか。

病院から何の説明もなかったのか。

さらに気になることがある。

コタツの上には、今月末までの携帯が置いたままだ。

一体どうなっているんだ。

両親の金銭感覚は。

介護より先に、
お金が崩れていく現実の方が、正直つらい。

2026年3月18日水曜日

認知症の父と母の入院。iPhoneメモが記録していた介護崩壊の2021〜2023年

※下の画像は、母の2回目の入院時に医師が説明のために書いたメモである。


これは、私がiPhoneのメモに残しておいた記録をもとに書いている。

読み返すと、当時の張り詰めた空気や、心が削れていく感覚がよみがえる。
2021年の引っ越しから、2023年に生活が崩れていくまでの記録である。


2021.08.03

実家が都営住宅へ引っ越し

この頃の父は、まだ母から話を聞かなければ認知症とは分からない程度だった。

しかし今振り返ると、異変はすでに始まっていたと思う。

母が引っ越しの準備をしていても、父は何も手伝わなかった。
まるで自分は引っ越しをしないかのように、横でずっとテレビを見ていたという。

私も手伝いに行ったが、確かに父はずっと座っていた。

小さな仏壇があったのだが、それだけは業者ではなく私が段ボールに入れて台車で運んだ。
玄関を出るとき、父がふと言った言葉を今でも覚えている。

「急に元気がなくなっちゃったよ」

あの言葉は、今でも頭に残っている。

引っ越し当日は甥も手伝いに来てくれて、なんとか片付いた。
しかし、皆が動いている中で、父も母もただ座っているだけだった。

2026年3月15日日曜日

3日間のうどんと、消えるタクシー代。親の「贅沢」が私を削る

画像はAIGemini)で生成したイメージです


先日、母の様子を見に行ったとき、コタツの上にdocomoの3Gガラケーが置きっぱなしになっていた。


ほとんど使っていない。

電話が鳴っても出ないことが多い。


3G終了の話を聞いたとき、私は母に言った。

「もう契約しない方がいい」と。


スマホにすれば、月々の維持費は決して安くない。

今の生活に、そんな余裕はないはずだからだ。


もしかしたら、私は細かすぎるのかもしれない。

そう自分に問い直すこともある。


けれど、そう思わざるを得ない背景がある。


今の都営住宅に越す前、母からこう言われたことがある。


「毎月8万円、家賃を援助してほしい」


泣きながらの頼みだった。

だが、私は即座に断った。


自分の生活さえ危うい私に、そんな大金は到底出せない。



見栄の生活と、底をついた現実


かつての両親は、私を鮨屋のランチに連れて行き、

タクシーで食事に出かけるような暮らしをしていた。


一見すると、余裕のある生活だった。


だが後になって知った。

その生活は、祖父の遺産を食いつぶして成り立っていたのだと。


すべてが底をつき、

私の元へ万単位の送金依頼が届くようになって、

ようやくその現実を知った。


父は見栄っ張りだが、母も変わらない。


生活費が足りないと嘆く一方で、

病院へは往復5千円かけてタクシーで行く。


バスでの行き方を教えても、

数回でやめてしまう。


新聞はやめても、

テレビの番組表を見るためだけに雑誌を買う。


「ドブに捨てるお金」と、私の食卓


先日の、父のショートステイ当日キャンセル料もそうだ。


最初から「無理だ」と分かっていたことに、

またお金が消えていく。


私には、そのお金が

ドブに捨てられているようにしか見えない。


私の昼食は、

3袋100円のうどんを3日かけて食べるのが日常だ。


そこに卵を一つ落とし、

79円の野菜パックを小分けにして入れる。


それが、私にとっての「贅沢」だ。


マクドナルドなんて、

もう何年も食べていない。


その横で、両親はマックを買ってきて食べる。


年金に見合った生活。

身の丈に合った暮らし。


それが、なぜこれほどまでにできないのだろうか。


限界の淵で、親の心は分からない


一度、父を施設に入れ、

生活保護を申請する話が出たことがある。


母もその時は納得していた。


だが翌日には、

「やっぱり生活できないから」と、

話は白紙に戻った。


以前、母はこう言っていた。


「都営住宅が当たらなければ、

お父ちゃんを田舎に帰して、

私は死ぬつもりだった」


そこまで追い詰められているのに、

なぜ目の前の数百円、数千円を大事にできないのか。


共倒れ寸前の生活の中で、

それでも捨てられない「昔の感覚」。


ギリギリの生活を送る息子として、

親の考えは、どこまでいっても分からない。


削り節のように削られていく私の生活の横で、

無意識に浪費されていく実家のお金。


そのコントラストに、

私は今日も、眩暈(めまい)を覚える。




2026年3月14日土曜日

記憶の檻。父が「ひとり」を拒む本当の理由

画像はAIGemini)で生成したイメージです


 最近、母がふと漏らした。


「お父ちゃんは、認知症になってから一人になるのを異常に嫌がっている気がする」


かつての父は、仕事も家事もテキパキとこなし、何でも一人でできる人だった。

掃除も料理も、母よりマメだった。


そんな父が今、母が少しでも不在にすると、不安に駆られたように私に電話をかけてくる。


それは単なる「老い」や「病気」による不安なのだろうか。


私の記憶の断片を手繰り寄せると、別の景色が見えてくる。



激しい独占欲と、拭えない疑念


思い返せば、父は昔から、母の帰りが遅いことに異常なほど怒る人だった。


私が小学生の頃。

学校の集まりで母の帰宅が夜9時を過ぎようものなら、


「帰ってきたら水をぶっ掛けてやる」


と息巻いていた。


姉が必死に止めていた光景を、今も鮮明に覚えている。


そして30代の頃、姉から聞かされた衝撃的な事実がある。


かつて両親が大喧嘩をした際、父は母に対し


「子供の手を引いて他の男に会っていただろう」


と詰め寄ったという。


母が

「誰に聞いたのか、その人に会わせて」

と迫ると、父は


「相手に迷惑がかかるから言えない」


と言って逃げた。


その話が真実なのか、あるいは父の被害妄想だったのかは、母にしか分からない。


けれど父は、その 「疑惑」 を抱えたまま生きてきたのではないか。


どんなに遅い時間になっても実家の伊勢崎から日帰りで帰宅していたこと。

祖父の介護中、酒に酔って母に暴力を振るい、翌朝土下座して謝ったあの事件。


その根底には、母を繋ぎ止めておかなければならないという、歪んだ恐怖心があったのかもしれない。



認知症が暴く、心の古傷


認知症という病気は、新しい記憶を消し去る一方で、

心の奥底に沈殿していた古い感情を、生々しく浮き上がらせることがある。


父がショートステイを頑なに拒むのは、

施設が嫌だという以上に、


「自分が家を空けている間に、また母がどこかへ行ってしまうのではないか」


という数十年前の記憶が、今の彼を突き動かしているのではないか。


本人にとって、それは「嘘」でも「妄想」でもない。


今この瞬間、目の前で起きている「現実」と同じ熱量を持った、消えない痛みなのだ。


母が入院していた時も、父はよく嘘をつき、人に迷惑をかけてもそれを認めようとしなかった。


当時はただ困り果てていた。

けれど今思えば、あれも自分を守るための、彼なりの必死な防衛本能だったのかもしれない。



「ひとりになりたくない」


父のその言葉は、

私たちが想像する以上に、暗く、長い年月をかけた孤独と疑念の叫びなのかもしれない。


母が横で見せている小さな安堵の裏側で、

父は今も、数十年前の霧の中に閉じ込められたまま、


母の影を追い続けている。