2026年2月28日土曜日

22年前のあの日、私たちの家は一度壊れた

 前回の記事を書いてから、ずっと考えていることがある。

「もし、あの時あんなことが起きなければ、今の父はどうなっていただろうか」と。


かつて、両親は自営業で婦人靴の加工業を営んでいた。

朝8時から夜10時まで、休みも返上して働く背中を見て育った。やればやっただけ収入になる。端から見れば、それなりに余裕のある家だったはずだ。


けれど、2005年。あの夜を境に、私たちの時計の針は狂い始めた。


睡眠薬を大量に飲んだ姉

夜10時過ぎ、姉の子供からかかってきた一本の電話。

「ママがリビングで倒れた」

慌てて家を飛び出していった両親が戻ってきた時、顔は土色だった。

「朋美が睡眠薬を大量に飲んだ」

「いつ目を覚ますか分からないって言われた」


面会に言ってもICUのベッドで動かない姉。父は「俺が代わってやりたい」と泣きながら、何度も何度も姉の足をさすっていた。

その後、奇跡的に姉は目を覚まし、「ジジ、家に帰りたい」と言った。

その一言で、すべてが元通りになると信じたかった。


終わりのない「支え」という名の泥沼

だが、本当の地獄はそこからだった。

退院した姉は、以前の姉ではなかった。買い物依存症になり、働かなくなり、顔を合わせれば「お金を貸して」と繰り返す。

離婚した元夫からは一銭も援助がない。父は、孫二人の生活費と、壊れていく娘の借金を、すべてその肩に背負い込んだ。


私も、当時付き合っていた彼女とのデート中、何度も入る姉からの着信に心を擦り切らせていた。

家計を支え、姉にお金を渡し、自分の手元にはほとんど何も残らない日々。


母は姉が再び「変な気」を起こさぬよう、夜な夜な姉のマンションへ泊まりに行った。姉の姿が見えなくなれば、両親は血眼になって街を走り回った。

そんな「訳のわからない生活」が何ヶ月も続き、家族の精神も、そして家計も、音を立てて崩壊していった。


涙の出なかった別れ

そしてある日、姉はあっけなく逝った。

子供たちがマクドナルドへ昼食を買いに行った、わずか数分の間の出来事だった。


知らせを聞いた時、私から涙は出なかった。

冷酷だと思われるかもしれない。けれど、私の心はどこかで「これで共倒れにならずに済む」と安堵してしまったのだ。

いや、実際には、金銭的にも精神的にも、両親はもうあの日、とうに倒れていたのかもしれない。


届かない相談、戻らない時間

今、認知症になった父は、その姉がまだ生きていると思って電話をかけてくる。

「朋美の番号を教えろ」と。


もし、姉があの日あんな選択をしなければ。

もし、姉が今も生きていてくれたら。

私は一人で、この「狂い始めた父」のことを抱え込まずに済んだろうか。二人で、父の老いについて相談できただろうか。


姉が生きていれば……そんな仮定には何の意味もない。

けれど、父が忘れてしまった「母の献身」の裏側には、こうした血を吐くような家族の歴史が積み重なっている。

今の父は、自分が娘のために心血を注ぎ、その結果として今の困窮があることさえも、もう思い出せない。

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