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| 小さい頃、祖父がブランコを押してくれた日の写真。 |
祖父はまだ、自分の状況を理解できる人だった。
2013年5月。
祖父と一緒に暮らしていた叔母が亡くなった。
それまで二人で暮らしていた祖父は、
一人では生活ができなくなり、介護施設に入ることになった。
祖父は約3年間、同じ施設にいた。
施設に入った頃は、
「少し認知症かな」という程度だった。
しかし3年の間に、祖父は私のことを忘れてしまった。
それでも私は、月に1回か2回、祖父に会いに行った。
行くときは必ず、195mlの紙パックのジュースを持っていく。
祖父はそれを両手でしっかり持って、
いつも美味しそうに飲んでいた。
数ヶ月に一度、外出許可を取って祖父を外に連れ出した。
決まって行くのはラーメン屋だった。
祖父はラーメンを注文すると、
両手でどんぶりを抱えるようにして食べた。
「そんなに急いで食べなくても大丈夫だよ」
そう言っても、祖父は夢中で食べていた。
祖父だって、好きで施設に入ったわけではない。
叔母が亡くなり、
一緒に暮らす人がいなくなったからだ。
当時の私は何も力になれなかった。
叔母が亡くなった時、
私の母と叔母は、叔母の口座のお金を下ろすことに必死だった。
母は下ろしたお金を叔母に渡しながら言った。
「少し持っていくか?」
その姿を見て、私は腹の中で思っていた。
それは祖父のお金だろう。
何、人のお金を勝手に使っているんだ。
お金はもらう。
祖父の面倒は施設。
それはおかしくないか。
母と叔母が力を合わせれば、
何か出来たんじゃないか。
そう思っていた。
祖父は施設に入ってから、こう言っていた。
「もうここにいるしかないんだろう」
誰が好きで施設に入るだろうか。
そんな祖父の涙を、
私は一度だけ見たことがある。
施設の入り口で、
祖父はポロポロと涙を流していた。
「どうしたの?おじいちゃん」
そう聞いても、祖父は何も答えなかった。
ただ黙って泣いていた。
その日、私は母と叔母に電話をした。
「おじいちゃん、泣いてたよ」
しかし返ってきた言葉は、
「どうすることも出来ない」
それだけだった。
2016年4月16日。
祖父が危ないという連絡が入った。
私は急いで施設へ向かった。
祖父は静かに横になっていた。
「おじいちゃん」
そう声をかけると、祖父は目を開けてくれた。
そして涙の溜まった目で私を見て、
小さくうなずいた。
それが、祖父との最後の会話だった。
それから3日後。
祖父は亡くなった。
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